歴史を指し示す人

 ワシャにとってバイブルともいえるものは司馬遼太郎の作品群である。司馬さんの言葉は、何度読み返しても、その都度、得るものがある。迷える愚者にその進路を指し示してくれるものと信じてやまない。
 今は、『街道をゆく』を読んでいる。昨日は第23巻の『南蛮のみち』を読んでいた。『南蛮のみち』はスペインとポルトガルの紀行である。その書き始めが、林屋永吉駐スペイン大使と会った話だった。
 司馬さん、のっけにこう書く。
《私は、日常、なるべく官のえらいひとには触れないように(べつに意味もないが)しているが、林屋さんにかぎっては、別趣の気分でいる。》
 べつに意味もないが……と書かれているが、実は深い意味があった。司馬さんは「官のえらいひと」が嫌いなのである。最高学府を出て、自分は知識一等を持っていると自負している輩が多い。その自負の割には文化的な素養をまったく身につけていない偏頗な人間が、司馬さんには鼻につくのである。
その点で林屋さんは、実は、司馬さんが何度も対談をしている京大名誉教授の林屋辰三郎氏の舎弟ということもあり、もちろん林屋さんご自身が一流の文化人であることからも、話がはずんだ。
 その話が、「日本文化の南蛮からの影響」ということになって、その内に「茶道」に及んだという。ここで目から鱗の話が出てくる。確か……以前にも読んだはずなのだが、その時はさして気にならなかったのかなぁ。年齢をかさねて、そのあたりが面白く感じられるようになったからだろうか。
《茶道は、いうまでもなく中世末期に堺の貿易商人のあいだで成立したもので、サロンのつどいというものを、構成から内容まで徹底的に芸術化する。こういう芸術表現は、似たものさえ世界にない。そこに絵画があり、茶碗その他の立体的な造形があって、それらを賞美し、また亭主と客が、和敬静寂という心を表現するにふさわしい所作をする。所作という点では、ほのかながら演劇的である。》
 ワシャは茶道に造詣などまったくないけれど、この司馬さんの解説はよくわかる。もう少し司馬さんの話を聴こう。
《場所は、狭くなくてはならない。道具は、本来、遠く海外から舶載されてきたものでなければならなかった、と私は思っている。客たちは、大航海時代の真只中にいる。道具をながめたり、茶盌に唇をつけたり、手にとったりするときに、四畳半という、極端に小さく制限されたタブローのなかにあって、万里の波濤を感ずる。いわば、せまい茶室に地球が押しこめられ、波がみちみちている。さらには諸道具から、中国、朝鮮、交趾、南蛮といった諸文明を想像してたのしむというのが、初期の堺の茶というものでなかったか。》
 ううむ、茶道というものの奥行きを感じる一文であった。

 今朝のニュースで訃報が流れた。
http://mainichi.jp/select/news/20130810k0000m040032000c.html
 同志社大学の森浩一先生が亡くなられた。以前に、考古学に、ささやかに関わったことがあり、2度ほどその謦咳にふれる機会をいただいた。また著作の『諸王権の造型』『古墳から伽藍へ』(どちらも中央公論社)なども読ませていただき、日本の古代について蒙を啓いていただいたものである。考古学を一般に分かりやすくしたという点でも、森先生の功績は大きい。

 実は、ここ数日、森先生の影がチラチラしていた。予感と言うのではない。何度かそのお名前というか、人影のようなものを目にしていた。夏だからって、怖い話をしようというのではない。本当の話である。
 種を明かせば、『街道をゆく』なんですね。司馬さんと森先生は古代史において交流が深く、何度も対談をされている。『日本の渡来文化』、『朝鮮と古代日本文化』、『日韓 理解への道』(すべて中公文庫)などである。このために『街道をゆく』の中にも、繰り返し森先生の話が出てきた。例えば、第20巻『中国・雲南のみち』には、森先生と苦瓜の話がおもしろく書かれてある。また、第41巻『北のまほろば』では、縄文文化の東北の優位性について森先生の言葉を引いている。
縄文時代にどうしてこんなに東北が栄えていたのか。近畿全部の縄文土器よりも、ここ数ブロックのほうが、はるかに多い。力の差、量の差がある」
 こんふうで『街道をゆく』を拾い読みしていると、あちこちに森先生が現われて、司馬さんと話をするので、影がチラチラと見えたんですね。
 考古学の泰斗のご冥福を祈る。