戊戌(ぼじゅつ)に還る

 司馬遼太郎のエッセイに「うたうこと」という短いものがある。司馬さんが60歳の5月に書かれたものだ。
この時期、司馬さんの目は支那から朝鮮半島に向いていた。『街道をゆく』でも「蜀・雲南のみち」を執筆していたし、「日本・朝鮮・中国」をテーマにした鼎談も行っている。また『日韓理解への道』もこの年に上梓しているから、間違いなく司馬さんの意識は東アジアのあたりを浮遊していた。
「うたうこと」というエッセイである。「唄」というものに関連して、東アジアの文明論を展開している。西洋においては、神への讃えは「聖歌」という形で表現されたが、東アジアの諸民族は、言語が多様な声楽にむかなかったのか……とも言われる。そしてこう続ける。
《信じがたいほどのことだが、現在中国の漢族にあっては民謡というものがないに等しい。》
 え、全然知らなかった。支那で「民謡」と言うと、新疆ウイグル自治区の「唄」をさすのだそうな。ワシャは、新疆ウイグル自治区は、支那の版図ではないと確信しているので、支那に「唄」というものがないということである。
 司馬さんは「うたうこと」から少し離れて、支那の宮廷音楽の話をされる。「中国4000年」とかいう割に、支那には宮廷音楽が存在しない。もちろん時代時代にはあったのだろうが、王朝が滅ぼされるとき、その王朝の音楽も四散して消えてしまうのだと言われる。こんなことを4000年もやってきたから、なにも残っていないらしい。
 唐の王朝の時に、日本に雅楽が伝わった。唐が歴史から消えた時に唐の雅楽も消滅したが、日本に渡った「雅楽」はその後、1200年を生き延びて、日本人の心を癒してくれるのである。東儀秀樹さんの篳篥(ひちりき)の音色、心地いいですよね。
 ともかくも、中華では、それぞれの王朝が己のことを主張し過ぎたために、大切な文化が時代を越していくことができなかった。不幸といえば不幸な民族だ。
 しかし、周辺ではそうはならなかった。前述の新疆ウイグルもそうであるし、モンゴルや朝鮮などにも「唄」は生き延びた……。
 そんなことを司馬さんは60歳の時に考えておられた。この後、『韃靼疾風録』を書き出されるので、おそらくこの頃は、大陸と東アジアの辺境についての取材をされていたのだと思う。2年後には「日韓断想」という比較的長い文明論を書いておられることからも、司馬さんが朝鮮半島と日本、朝鮮の向こうにいる文化を永続できない大国と島国の関係性などを思索されていたのだろう。
 折りも折り、紙面やテレビは朝鮮半島とその向こうの共産党王朝の話に終始している。こういった時だからこそ、明敏な観察者である司馬さんの文明論を読むに値するのではないだろうか。
 60歳からの司馬さんの思考を辿っていく、それも悪くないと思っている。