春や昔

 正岡子規の句に「春や昔 十五万石の 城下かな」というものがある。俳句の中興の祖といわれた子規が、明治28年に故郷の町に帰ったおりにつくった。司馬遼太郎は『坂の上の雲』の冒頭でこのことにふれ、「多少あでやかすぎるが、啄木などと違って、故郷に対し複雑な屈折をもたず、伊予松山の人情や風景ののびやかさをのびやかなままにうたいあげている」と評している。

 その伊予松山藩である。久松松平家がながく治めていた。久松家の藩祖は、徳川家康の異父弟の定行である。三河国西郡に産まれたとあるから今でいう蒲郡だね。そこをふりだしに近江国蒲生郡遠州掛川、伊勢桑名などを転々と移り、移るたびに石高を増やし、最終的に伊予松山の城主で上がりとなった。
 定行、もちろん、三河武士を数多従えて松山に入府している。戦国期、三河武士というのは武張ったことでは人後に落ちなかった。薩摩、土佐とならんで強兵の多いところで、要するに後進地域だったということである。経済先進地である尾張衆から言わせれば「三河など人よりも猿の方が多い」と言われていたほどだ。しかし戦(いくさ)ともなれば、尾張兵3人に対し三河兵は1人で足りたというから、その強さは並大抵ではない。ゆえに家康は天下を取れたともいえるわけで、三河兵の累々たるむくろがなければ江戸三百年の泰平はなかった。
 話をもとにもどす。武を尊ぶというと聞こえがいいが、融通のきかない田舎者の三河衆が、伊予に大挙押し寄せた。古代から伊予は、瀬戸内海という文物が流通する大動脈に面している。いわゆる文化の先進地といえるところで、その奥行きが武張った三河衆を伊予風に変化させた。
 夏目漱石の『坊ちゃん』に登場する学生たちが、三河衆を三百年煮込んだ結果だと思えばいい。
「バッタた何ぞな」
「そりゃ、イナゴぞな、もし」
「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」
「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人で御這入りたのじゃあろ」
 イナゴ事件の際の、学生たちの言い訳である。まったりとした中に、三河の底意地の悪さのようなものが残滓として残っているじゃあろ。
 松山の学生たちに「坊ちゃん」は江戸っ子を自負しているが、それだって家康にくっついていった三河衆の末裔のわけで、三河三河のいさかいと思えば、けっこう笑えるシーンではある。

 司馬さんは『街道をゆく』の中でこんな話をしている。
《松山は江戸期から俳諧の一大淵叢(えんそう)であり、町方にいたるまで詞藻ゆたかな者が多かった。》と前置きをして、明治4年にこの地に赴任した土佐人県令(知事)を登場させる。土佐である。前述したが、薩摩、三河とならぶ田舎者の多い所ですよね(笑)。この県令が、当時、松山県と呼ばれていた県名を「石鉄県」にすると言い出した。理由は「松山県という名称そのものが古くさい。民心一新のため改称したい」というものである。結局、一時期この地域は「石鉄県」と呼ばれることになる。詞藻のないワシャからみても、なんとつまらぬ命名であることか。
 司馬さんは「おそらくこのいかがわしい県令がひとりで考えたものだろう」と推測をしている。この県令、すぐに人物力量を新政府に見透かされ、あっけなく東京に異動させられてしまう。その後、「石鉄県」は後任の県令が変えた。この男は長州人で土佐人よりも教養があったに違いない。『古事記』から県名を付けた。そのあたりは司馬さんの文章を引く。
《讃岐は男性で飯依比古(いいよりひこ)であり、阿波は女性で、大宜都比売(おおげつひめ)となっている。……土佐は男性で建依別(たけよりわけ)――雄々しい人――という名であり、伊予は愛比売(えひめ)で、文字どおりいい女という意味である。》
 廃藩置県で諸藩が県になるとき、官軍側についた藩は城下町の名前がそのまま県名になるという名誉を得た。残念ながら松山藩は、賊軍だったために「松山」を取り上げられ、「石鉄」などという妙な名乗りを与えられた。しかし、最後に命名されたのが「愛媛」である。この艶やかさはいかばかりであろうか。