三河武士

 先週末に講演会に行ってきたことは日記に書いた。まだ、その余韻が残っている。「三河武士」というものについてである。

 室町末期に編まれた『人國記』に「三河人の特質は、その言葉賤しけれども、實義多し。事を約して、遂げざることなし。親子の間も、互に恥ぢらい、虚談することなし。然れども偏屈にして、我を立て、人の言を聞き入れず、これに依りて命を捨つるものも、間々これあり」とある。
 まさか、三河人すべてがこのタイプに当てはまるとは思えないが、傾向としてこういった気性を呈していたということだろう。實義であり命令に納得すれば必ずやり遂げる。実際に戦国時代において薩摩、土佐などと並んで三河兵の強さは格別であったという。
 とくに鬼作左と呼ばれた本多重次は典型的な三河武士だった。天下人となってからの秀吉にも昂然と逆らったし、納得しなければ主人の家康にすらはむかった。徹底的に頑固おやじであり、我を通すためには、己の命など鴻毛より軽いと思っていた。だから、この人にまつわるエピソードは激烈なものが多い。
 例えば、長篠の合戦場から家人に送った「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」という有名な手紙は作左衛門の手による。また、家康の上洛に際し岡崎にやってきた秀吉の母を焼き殺そうと準備したのも作左衛門である。なにしろとんでもない三河武士だった。こういった特殊な人物(水野勝成などもこの部類)が家康の配下には多く、その存在が世に広まって三河武士の相場を上げていったものと思われる。
 ただ司馬遼太郎の解釈は少し違う。三河武士に満腔の好意を寄せつつも、三河のもつ臭みというか土臭さについて書き残している。そのあたりは『覇王の家』の冒頭の「三河かたぎ」に詳しい。そもそも『覇王の家』自体が三河武士論のような体になっているが、その中でも長編のプロローグの部分はことのほかおもしろい。
《――人よりも猿のほうが多い。と尾張衆から悪口をいわれるような後進地帯であった。ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずるという点で、利口者の多い尾張衆にくらべてきわだって異質であった。犬のなかでもとくに三河犬が忠実なように、人もあるじに対して忠実であり、城を守らせれば無類につよく、戦場では退くことを知らずに戦う。》
 三河武士、犬と一緒にされている。
《――三河馬鹿。と、尾張衆は三河の農民をあざける。しかし三河という国の風土にはもともと尾張のような風土がなく、三河衆はどうにも尾張風の精神の軽快さをもつことができない。》
 三河武士ではなく三河馬鹿ですぞ(泣)。
 このあとも、「人質屋敷の三河者は、負け犬のようだ」「その領民どもは家康の郎党のまわりに駆けよって、噛みつくようにきいた」
 どうも司馬史観の中では、三河人は忠犬八公のような位置づけらしい。