忙しい日

 年に何度か、とびきり忙しい日というのがある。昨日は間違いなくそんな一日だった。ワシャの仕事は、知っている人は知っているが、知らない人は知らない。当たり前だ。
 実はね、ここ2〜3年はイベント屋のようなこともしている。その関連で、昨日は3つのイベントが重なった。詳しいことは言えないけれど、午前中に実施したセレモニーには準備期間が2ヶ月くらいかかっている。下準備というか、下ごしらえから考えれば3年の時間を費やしたと思う。それだけに成功裏に終わった時にはホッとしたものである。
 アトラクションでは地元の小学1年の子供たちが活躍した。猛暑日だったので、小さな子供たちが体調を崩さないかハラハラしたわさ。

 そのセレモニーに続き、場所を変えて、ある式典を実施した。これがいい式典だった。
 場所は、某小学校、そこは元々高等女学校が建っていた場所で、今は小学校になっている。その体育館でのこじんまりとした卒業式があった。
 昭和20年、アメリカを主力とする連合軍との戦況は悪化の一途をたどっている。健康な男子は老いも若きも戦地に送られ、銃後の労働力は欠乏していた。そこに女学校の生徒たちが動員されたのである。彼女たちは、空襲の恐怖と戦いながら、工場で油にまみれて働いた。農繁期は食料の増産のために農地で土と格闘していた。
 ワシャはその方たちから話を聴く機会を得たが、どの方も口々に「大変な時代だった」「死ぬような目に何度もあった」「苦しい日々だった」と言われる。しかし「いい経験だった」「おかげで強くなれた」とも話してくれた。
 この方々が、昭和20年という激動の年に卒業年次を迎えた。このために卒業式が開かれなかった。卒業証書が付与されなかったのである。このため68年の時を超えて、昨日、ささやかな卒業式を挙行したということ。
 大きな体育館の真ん中に演台と折りたたみの椅子を何脚か置いただけの簡単なこしらえで、そこに卒業生のお婆さんたちが神妙に座っている。式をするスペースが小さく、その周囲のフロアががらんと空いている。そのためか、炎天の日だったが、いくぶん涼しかった。せみ時雨も、窓まで距離があるので、その分、やわらかに感じた。

 3つ目のイベントは、中心市街地にある大きな広場で開催された。大きなステージが設えられ、そこでいろいろな出し物が繰り広げられる。そのオープニングセレモニーだった。
 こっちは暑かったなぁ。熱気を抑えるために、ホースで水を撒くんだけど、まさに焼け石に水だった。撒いた端から、ガンガン乾いていく。それが湿度になるから、蒸す蒸す。
 それでもなんとか無事に終えることができた。めでたしめでたし。

 おっと、喜んでいる場合ではない。忙しい日はまだ終わっていないのだ。部下にセレモニーの後に事を頼んで、トイレで、式典用の地味な服から、ラフなシャツに着替えて、速攻で駅に向かった。今から愛知県の北の端っこにある扶桑町まで行かなければならない。予定しているのは午後3時30分代のJRの快速である。駅のホームに立って午後3時25分、なんとか間に合った……と思ったら甘かった。
「只今、〇〇駅構内で列車と人の接触事故がありダイヤが乱れております」
 という場内放送が入る。おいおい、この急いでいる時にいい加減にしてくれ。ワシャは前々から思っていた。列車への飛び込み自殺ほど傍迷惑な自殺はない。自殺したい人はいろいろな事情があるだろうから、あえて止めないけれども、死ぬのであればせめて人に迷惑をかけないということを心がけてほしい。ビルから飛び降りて、歩行者を巻き添えにするとか、死刑になるために人を殺すとか、こんなのは言語道断だけれど、列車への飛び込みもその影響する人の数から言ったら、とんでもなく大きい。ぜひ止めてくれ。

 結局、東海道本線は遅れに遅れ、仕方がないので、ワシャは車内を走っておりましたぞ。なんとか金山まで辿り着き、名鉄に乗り換えて、一路、扶桑へ……。
(つづく)