安城の新美南吉

 谷悦子『新美南吉の詩と童話』(和泉書院)を読んでいる。副題に「哀のある愛の世界」とつけられていて、読み進めていくうちに、「哀」に触れて、つい涙ぐんでしまうところがあった。

 

「第七章 幸せだった安城時代」である。半田寄りの南吉関係者は「不幸な半田、幸福な安城」を認めたがらないが、谷氏が章立てまで書いてくれているので、もうこれは正論と言っていい。

 安城市が10年前に「南吉が青春をすごしたまち」というキャッチフレーズで大々的にプロモーションを展開したときには、半田市から安城市の担当部課長が嫌味を言われたらしいですよ。でも、これで安城市の職員も半田の町を、大手を振って歩けますな(笑)。

 おっと「第七章」のことだった。章の題が「幸せだった安城時代」だから、当然のことながら「幸せではなかった〇〇時代」があるわけだ。

 実母と死に別れ、8歳で新美家に養子に出され、同年、寂しさに耐えきれず実家に帰り、小学校・中学校はそこから通う。南吉(正八)は優秀な子供であったことは間違いなく、半田中学校を次席で卒業している。ただ、身体が弱かったために、岡崎師範学校を受験するも、不合格となり、大きな挫折を味わうことになる。東京高等師範も失敗し、19歳でようやく東京外国語学校に入ることができた。23歳までの東京時代はそれなりに充実していた。東京外語での成績も優秀だし、児童文学者たちとの交流もあった。 ただし、21歳のときに初の喀血、当時は死病と言われていた「結核」と診断され、半田に帰郷している。半田でしばらく療養し、再び東京にもどるが、この時期に、ずっと好意を寄せていた木本咸子の結婚の話を聞き、「ぼくはやぶれかぶれの無茶苦茶だ やぼつたくれの昨日と今日だ 雨だ 雨だ」と友人への葉書に書き連ねている。

 発病、失恋・・・などが重なった東京時代が、はたして幸せだったかどうか・・・。幸せだったかもしれないけれど、「哀」の薄幸だったような気がする。

「第七章」、「第七章」と言いつつ、「第七章」にまだ入っていませんが(笑)、谷氏が「安城時代」に重点を置いていることは、章に割いたページ数からも見えてくる。本自体は364ページ全8章と巻末の年譜で構成されいてる。その中で「第七章」は74ぺージを使った大部となっている。「第一章 南吉を育んだ環境」で58ぺージ、ここでも、安城時代のことがあちこちに書かれいている。

「第八章 新美南吉の詩と童謡――深くて斬新で豊かな世界」は、著者の谷氏が2017年に半田で開催された「貝殻忌講演会」で講演した記録である。これも、半田で講演したんだけど、内容を読むと安城のことを詳細に話されいて、「安城市歴史博物館」、「安城で紡がれた南吉の詩」、「南吉が安城にいた頃」、「安城とのご縁」、「安城の街」、「(安城高女の)教え子の加藤千津子さんや本城良子さん」などなど、安城ばかりが登場する。ここは大きく引いておきたい。

安城というのは、南吉の人生にとって作品にとって、大きな意味をもつということがわかりました。それで、安城から書き始めようと思って昨年からずっと取り組んでいるんですが、調べていくうちにどんどん難しくなってきまして。まず農都日本デンマークと呼ばれた豊かな土地があって、大見家がある新田は江戸時代からの三百年の歴史を持っていて、そういう中に安生高等女学校があり、その全てに恵まれた中に南吉がいたことが見えてきて、そう簡単には書けないということで、私の原稿は安城で止まっているんですね。》

 こう話したのちに、安城時代に作った詩について語っておられる。

《安生高等女学校で、生徒たちが詩を書き始めたのに触発されて、南吉も詩を書き、生徒が創った詩を生徒詩集として出すようになります。》

 南吉は安城高女で最初に出した詩集の「はじめに」に、自作の詩を出している。

 

 生(ア)れいでて

 舞ふ蝸牛(デデムシ)の

 触角(ツノ)のごと

 しづくの音に

 驚かむ

 風の光に

 ほめくべし

 花も匂はゞ

 酔ひしれむ

 

 かつて安城高等女学校の庭にあって、その後、安城高校の中庭にあった大石の上に刻まれた詩である。後年、不埒な生徒がその上に座って煙草を吸っていたとか、いなかったとか(笑)。

 そんなことには触れられていないが、なにしろ「第八章」も安城が満載なんですね。

 半田での講演会で、安城のことばかり語っておられるが、谷氏、半田市から睨まれなかっただろうか?

 さて、ってようやくかい(笑)。「第七章」である。タイトルはくどいようだが「幸せだった安城時代」である。昭和12年、南吉は「発病」「失業」「失恋」と南吉の生涯で最悪の年となった。両親のすすめもあり、半田で就職活動を始めるが、自身の体が思うように回復しておらず、両親の希望との板挟みで自殺まで考える状況だった。

 それが昭和13年3月、半田中学校の恩師の尽力により安城高等女学校に正式採用が決まった。この時の日記を写しておきたい。

《さて、僕は女学校の先生です。何だかヌクヌクして歩いてゐる。この間まで感じていたあの運命的な素寒貧――あれはどうしたといふのだらう。かうあつさり人間は一つの運命から他の全然異なつた運命に住みかへられるものか。》

 ここを読んだときに、ワシャは小さな感動を得た。それまでの南吉の不遇な人生を俯瞰してきて、ここで安城高女の平教員になることをこれほど喜ぶとは・・・。

 ワシャは南吉のほんのささやかな希望が叶ったことに思わずウルっときた。

 よかったなぁ、南吉さん。これからの君の人生に幸多かれと祈ります。

 

 もちろん、今を生きる私たちには、昭和13年3月までと、それ以降の南吉の人生が明らかに違っていることは知っている。しかし、自分の人生を知らない南吉にすれば、その喜びと期待はさらに大きいものだったろう。

 安城での南吉の幸福をもっともっと世間に知らしめるべきである。そのことが、今、難題を抱えている人たちの一縷の希望にもなる。そう思わせてくれる1冊だった。