新美南吉の友達

 昨日、書こうと思っていたのだが、放火テロの発生で、話題がそっちのほうに行ってしまった。書きたかったのは童話作家新美南吉のことである。
 南吉は、愛知県半田市で生まれた。そこで少年期を送っている。貧乏な実家、母との死別、継母との関係、養子先での不遇……感性を研ぎ澄ますためのツールには事欠かなかった。そして生まれながらの虚弱な体質である。どうしても他の子供からは一線を画したような立ち位置になってしまう。
 中学校の友達4人とともに並んだ写真がある。この写真を皆さんにお見せしようと、ネット上で探したのだが、どうやっても見つからない。半田市(というよりも新美南吉記念館)が情報として発信していないのである。この情報発信の「無さ」が南吉をして宮沢賢治の後塵を拝する結果を生んでいる。南吉を「学術」にするんじゃない!宮沢賢治と肩を並べる童話作家として世に出していくことこそが重要なことなのである。勘違いするにも程がある。
 そんなことはどうでもいい。写真の話だった。
 14〜15歳くらいの学生服の少年が5人フレームに納まっている。背後に絵画が掛けてあるところから、半田の写真館で撮影したものであろう。
 写真の並びで右から。腕を組んで座る少年。その少年の肩に右手を置き、椅子よりも少し高い台に腰を下ろす少年。ポケットに手をつっこみ中央に立つ体格のいい少年。その少年の左斜め前に腰かける少年。この4人は前を向いている。
 そして南吉である。端正な顔立ちを持つ細身の少年が左端で、真横を向いて立っている。明らかに正面を見ている4人とは異質なものがそこにただよう。
 南吉の子供時代を知る人物は、彼のことを「孤高」と評した。南吉は他者に対して、けっして心を開かない少年だったらしい。そんな雰囲気がこの写真からも垣間見えるのである。

 そんなだったから、友人もきわめて少なかった。ただ唯一、似た境遇の「畑中」という少年とは行き来していたようだ。『校定 新美南吉全集』(大日本図書)に収められた日記への登場回数もベスト5に入ってくる。
「碁を打った」
「喫茶店で会った」
「家によった」
「議論をした」
 とか、いろいろな場面で登場する。多分、南吉は「畑中」と一緒にいるときが、とても心が和む時間だったに違いない。それは日記の行間からにじみ出ている。
 しかし、没後、何十年も経てから「畑中」こと畑中俊平氏は研究者のインタビューに答えてこう言っている。
「新美といえば、私にとって、生涯のうちで、おそらく、たった一人の親友であった、と思ったその新美だがねえ。本当は自分の胸襟は、打ち明けなかったんだなあ。そう思ったですよ」
 唯一の親友の前でも、自分の本質をさらけ出せなかった「孤高」の若者、それが新美南吉という童話作家だった。

 不遇の半田時代が終わり、南吉の人生の中でもっとも輝いた高等女学校の教員時代がやってくる。それは晩年のわずか数年のことでしかないが、それでも金銭的な心配もいらず、作品も次から次へと世に出て、若い女学生にかこまれ「先生、先生」ともてはやされる輝かしい一時。これは南吉にとってなにものにも代えがたい人生の宝物になったに違いない。
 こんなのもあります。なかなかいい出来ですぞ。ご覧くだされ。
http://www.youtube.com/watch?v=wbHvyWIbUQw
 
 南吉はこの充実した時期に何度も東京に足を運んでいる。出版に関する用件もあったし、やはり巽聖歌に代表される文化人との交流を南吉が大切に思っていたからであろう。
 昭和15年3月27日、春休みを利用して南吉は東京へ向かった。東京では、精力的に動き回って、4月12日に帰郷の途についた(だから昨日書きたかったんですが……放火犯のバカ!)。
 日記を引く。
《三島に二時五分に着く。東京から出迎へを頼んでおいたが畑中は来てゐない。》
 この時期、親友の畑中氏は静岡県三島にいた。東海軍管区の三島陸軍練兵場に配属されていたのである。
 この年、南吉、畑中氏ともに27歳。南吉は病弱のため徴兵を免れ、安城高等女学校の教師として青春を謳歌している。畑中氏は、綿糸問屋で働いていたが、南吉に比べれば健康だったので、徴兵され二等兵として練兵場で小突き回される日々であった。
 いつものことながら話が少しずれる。三島の野戦重砲兵連隊は、第11、第12、第28、第52の4連隊で構成されている。その中の第12連隊は、19年に地獄のルソン戦線に送られた。そのあたりは岩波新書の『ルソン戦――死の谷』に詳しい。
 除隊の前後のことを畑中氏はこう語っている。
「彼(南吉)から最後の手紙がきましてねえ。私はその頃、三島にあった野重砲のね、第二連隊に入っていて、もう除隊するという時だったんですが。死ぬ一週間前でしたかねえ。たしか」
 畑中氏の言う「野重砲第二連隊」というのは、おそらく第12連隊の言い間違いであろう。18年3月、親友の二人の人生は大きく別れていく。南吉は喉頭結核が悪化してこの世を去り、畑中氏は除隊して命をひろった。

 インタビュー時、畑中氏が70歳である。南吉の倍以上の年齢を生き抜いた親友はインタビューの最後をこんな風にまとめた。
「彼の作品は、言わんとするテーマもはっきりしているし、テーマを超えた永遠性というようなものがあるように思う。新美は若くして死んでしまって、今、どこにいるのかわからないけれど、今でも南吉の精神は生きている……」