幡随院の命日

「お若(わけ)えのお待ちなせえやし」
「待てとお留めなされしは、拙者のことでござるかな」
 歌舞伎『極付幡随院長兵衛』(きわめつきばんずいいんちょうべい)の鈴ヶ森の場である。有名な台詞だけれど、今のお若え人は知らねぇでしょうね。

 幡随院長兵衛、江戸の初期に実在した侠客、口入屋(人材斡旋業)のボスである。明暦というから大阪の陣が終わって40年ほどしか経っていない。まだまだ戦国の荒れた余風が残っている時代だった。
 幡随院、武家中心の江戸にあって、武家の押す横車から町人を保護する自警団の頭目ような役割も担っていた。
 それに対し、精力のあまった若い旗本たちで組織する大小神祇組と称する集団もあった。当然、そういった集団同士が盛り場などで小競り合いを起こし、敵対勢力となっていくのは明暦も平成も変わりがない。当時、前者を町奴、後者を旗本奴と呼んで、庶民は眉をひそめた。このあたりを題材にして劇化したものが前述の歌舞伎である。ざっとあらすじを記す。

 江戸の村山座で芝居の開幕中、升席で喧嘩が起きる。旗本奴が暴れ出したのだ。そこに現われたのが幡随院長兵衛で、その貫録で場を治めてしまう。その様子を二階桟敷から見ていた男が、旗本奴の頭目の水野十郎左衛門である。長兵衛の男ぶりを認めながらも、仕返しを画策するのだった。
 ある日、長兵衛に十郎左衛門から、水野家で開催される花見への招待がくる。敵対勢力からの招待である。罠に決まっている。子分たちは長兵衛を止めるが、長兵衛、そこは男である。「怖がって行かないということになれば恥になる」と「一刻したら棺桶をもって迎えに来い」と告げて颯爽と出かけていく。
 案の定、花見は罠で、湯殿に入った丸腰の長兵衛は、旗本奴たちに刺殺されるのだった。
 明暦3年(1657)7月18日に幡随院長兵衛死す。

 あらすじの中にも出てきたけど、幡随院と対立する旗本が、水野十郎左衛門成之(なりゆき)である。この人物も実在している。徳川家綱の下で3000石、旗本の中でもかなりの大身と言っていい。本家は、備後福山藩十万石であり、この日記に何度か登場している家康の従弟の水野勝成
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20130530
の孫に当たり、父の代に分家し旗本になって江戸に詰めている。その血統からいっても重要な役につくことのできる家格なのだが、あえて小普請(幕府内の役職名、閑職である)に入って、日々を遊び呆ける道を選んだ。 
 この水野十郎左衛門、歌舞伎では悪者にされている。『忠臣蔵』で吉良上野介が悪役なのと同様である。しかし、歌舞伎が町人がつくった芸能であることに鑑みれば、町人側に贔屓があることは間違いない。実際には、幡随院長兵衛のほうもずいぶんのツッパリだったろう。そんなことから幡随院長兵衛と水野十郎左衛門、五分五分だったと思っている。

 水野十郎左衛門の父である成貞も若年の頃、「かぶき者」として名を馳せていた。ある意味、祖父の勝成からのDNAが受け継がれている。惜しいかな、成貞も十郎左衛門も時代に恵まれなかった。平和な時代に生まれたばっかりに、槍一本で俸禄を増やすこともならず、不本意な役目を余儀なくされた。その中で、精一杯かぶいて見せたのが、十郎左衛門たち旗本奴なのだろう。
 長兵衛の死から6年半、日頃の不行跡が幕府の幹部に知れてしまった。そのことに関して『国史大辞典』にこんな記述がある。
《寛文四年(一六六四)三月二十六日評定所に召出し、母の実家である蜂須賀家に預けを命じようとしたところ、成之は髪もゆわず袴も着けず白衣で出頭した。このため不敬の廉で成之は翌日切腹》となった。
 そもそも評定所に出頭するのに、正装をしない武士はいない。評定所を構成するのは寺社奉行町奉行勘定奉行の面々で、幕府の最高裁判所なのである。そこに白衣で出ていくとは……本物のかぶき者と言っていいだろう。恐懼してかしこまっていれば、他家に預けられて命拾いをするものを、あえて突っ張って死んでいく。水野十郎左衛門、男だねぇ。
 反骨の男は、切腹の作法すら無視をして、自分が死にたいように腹をかっさばいた。
 十郎左衛門の辞世が残っている。

「落とすなら地獄の釜を突ん抜いて阿呆羅刹に損をさすべい」

 お見事!