水野十郎左衛門

 この日記では何度か登場している旗本である。戦国大名のひとりである水野勝成の孫で、おそらく祖父と同時代の戦乱に活躍の場を与えられていれば、一国一城を切り取っていたに違いないほどの逸材だった。惜しむらくは生まれる時代が平和すぎた。十郎左衛門の生きた世はすでに太平が始まっており、この時代(徳川は四代目に入っている)で戦国侍のような強さ、義侠、荒っぽさは無用の長物と化していた。それに反発して十郎左衛門が旗本の愚連隊(あばれたくって仕方のない連中)を集結し白柄組を組織する。
 このあたり、リーダーとしての資質を充分にもっているわけで、本当に生まれてくる時代がほんの少し遅かった。歴史に「もし」はないけれど、十郎左衛門を戦国中期に水野勝成の弟あたりで出現させていれば、水野家は井伊の36万石と肩を並べていたのかもしれない。
「落とすなら地獄の釜を突ん抜いて阿呆羅刹に損をさすべい」
 幕府をなめきってこんな辞世を残していともたやすく腹を切った。水野十郎左衛門、かなり格好いい武士(もののふ)だった。ワシャは幡随院長兵衛より水野十郎左衛門のほうがピカレスクものの主人公としては好感を持っている。

 話は前後してしまったが、昨日、刈谷駅前で「刈谷の歴史」についての勉強会があった。前回から「水野勝成」の講義が始まったのだが、やはり中身が濃すぎて、2回目も「水野勝成とその係累」の話に終始した。関係者にビッグネームが多くて、それにそれぞれがおもしろいエピソードを抱えているから話がなかなか進まない。
 歴史ファンとしては、それはそれでありがたい。水野勝成の周辺をじっくりと聴きたいからね。

 講義の詳細についてはもう少し整理してから書きますね。水野家と新美南吉がつながっている話とかなかなかおもしろい。人生、幾つになっても勉強だなぁ。