草原の突厥(とっけつ)

 今朝の朝日新聞に「8世紀遊牧民の巨大碑文」の見出し。
 モンゴルのウランバートルの東部の草原で発見された碑文には「我が天神よ、ああ。褐色の我が土地よ、ああ。我が族長よ、ああ。我が家よ、ああ。我が獲物よ、ああ」などと刻まれていたという。いかにも遊牧の民らしい碑文ではないか。この碑文をつくった草原の民を「突厥」と呼ぶ。

 司馬遼太郎『草原の記』(新潮社)の中に、ウランバートルの街角で、色の白いモンゴル人の赤ん坊に驚くフレーズが出てくる。それに続く文章を引く。
《むろん、長ずると色黒になり、平均して私ども日本人の皮膚とかわらなくなる。モンゴル人は形質的には日本人に酷似しているのだが、ただ赤ちゃんの色が胡粉のように白すぎる。》
 赤ん坊ばかりではなく、例えば昨日2回目の40連勝をはたした横綱白鵬の皮膚を見てもいかにも白い。白鵬、長じても幼時の白さを失わなかった。
 このモンゴル人の白さに、前述の「突厥」が絡んでいる。「突厥」は「チュルク」であり、チュルク系遊牧民は、西からやってきたコーカソイド系(白色人)と多く交わっていた。
 8世紀、突厥人が西方から馬蹄を轟かせ、大唐帝国の北方を脅かした証左は、モンゴル人の血に中にも、草原の中にもあった。遊牧民の版図に比べれば中華をほこる唐の国域の小さなことよ。

 古来、遊牧民は赤を好んできた。現在のモンゴルの首都ウランバートルも赤い(ウラン)英雄(バートル)という意味である。草原が、空の青、地の緑、土の褐色であるがゆえに目印として強い色を求めた。それが「赤」である。
 突出した赤い英雄が、チンギス・ハーンである。彼の騎馬軍団はキルギス草原を越えてヨーロッパまで達した。チンギスを継いだのが息子のオゴタイだった。
 元帝国の王は何人もいるけれど、歴代の中でもオゴタイがいい。彼は皇帝でありながら実に寡欲だった。ものを分け与えることが好きで、側近がそれを諌めても生涯それを止めなかった。彼はこんなことを言っている。
「人間はよく生き、よく死なねばならぬ。それだけが肝要で、他は何の価値もない」
 死後に語り継がれる評判こそ大切だと、オゴタイは言っている。

 オゴタイの弟トゥルイの息子がフビライである。フビライ元寇という災厄を日本に降り注いだ。厳密にいえば、高麗が元をそそのかして、日本を侵略しようとしたのである。人のいいモンゴル人は、朝鮮人に乗ぜられ、博多湾に大軍を差し向け、日本全土を占領しようと目論む。
 フビライの国書は「日本が服属しなければ武力を行使する」と脅している。これを時の執権である北条時宗は一蹴し、元・高麗連合軍と鎌倉幕府の侍を主力とする日本は激突するのである。
 文永5年(1268)7月17日、禁中や延暦寺では異国降伏の祈祷が行われた。帝から地侍まで、国家が一丸となって外敵にむかったのである。
 東経20度から140度に至る大帝国を相手に、小さな島にしがみついて生きる民族が戦いを挑んだ。神風の天佑があったとはいえ、最前線に展開する鎌倉武士の命がけの奮闘があったからこそ、日本の誇りが守られたと言っても過言ではない。いずれにせよ、フビライの蒙古軍は博多湾で2度壊滅し、以降、日本には手を出さなかった。

 余談だが、ヨーロッパまで蹂躙し、日本にまで大軍団を出してきた世界帝国の元ですらチベットを侵略しなかった。それが今はどうだろう。
 チベット人にしてみれば、もっとも苛斂誅求な時代が今ではないだろうか。