敵を許す

 今朝、読書会の仲間から電話があった。内容は、「戦国時代に、敵将を許して自らの家臣として重用した事例はないか?」と言うものだった。
 もちろん、そういった事例は数多ある。とくに徳川家康においては、それが顕著で、例えば「井伊の赤備(あかぞなえ)」などは、丸ごと敵軍だった甲州兵を、そのまま取り込んだわけで、この「赤備」がその後の家康の進軍にどれほどの力になったかは計り知れない。
 そのことを電話口で告げると「武将としてそういった位置づけの人物はいないか?」と返ってきた。幾人かの名が思い浮かんだが、また、後ほど連絡をするということにした。
 まず浮かんだのは、竹中半兵衛である。豊臣秀吉の創業期の家臣であり、名軍師であった。彼はもともと敵対関係にあった斎藤龍興の家臣だったが、その後、請われて秀吉の参謀となる。半兵衛の臨終に立ち会った秀吉は、その手を取って死を惜しんだ。主君と家臣というより生徒と先生といった印象を持つほど大切な軍師だった。
 しかし、秀吉と半兵衛は直接干戈を交えたわけではないので、「敵将」とするには少し無理があるかもしれない。
 次に脳裏をよぎったのは、柴田勝家である。かれは、信長の死まで織田家の筆頭家老であり続けた。信長がもっとも重用した武将と言っていい。
 桶狭間の合戦をさかのぼること4年、織田家はまだ内紛をまとめきれずにいた。信長は当主だったが、その奇行から「たわけ殿」と呼ばれていた頃である。この不人気が重臣たちを弟の信行擁立に走らせた。
 信行の老臣の中に勝家がいる。このお家騒動で勝家は信長と戦う。要するに勝家は信長の敵将だった。稲生合戦(名古屋市西区)で信長は勝ち、勝家は信長の軍門に下る。それ以降の活躍は史実のとおりである。
 三人目は徳川家康の家臣がおぼろげながら立ち上がってきた。本多正信である。家康の後半生では、必ずと言っていいほどそばに従っている。股肱の功臣、謀臣と言えるだろう。
 家康には、その創業期に足元を揺るがす大事変があった。「三河一向一揆」である。詳しくは述べないが、この時、家康の家臣は二つに分かれて内戦を戦っている。正信は家康の譜代の家臣であるにも関わらず、一向宗門徒であったため一揆側に与した。家康が一揆を平定すると、正信は居所を追われ、諸国を流浪する。後年にいたり、許されて家康に帰順した。そのあたりを『寛政重修諸家譜』から引く。
《正信は國を去て加賀國に住す。のち高木九助廣正をしておほせをかうぶり、ふたゝびめされて仕へたてまつり、のち昵近して政議にあづかる》
 家康は、多くの敵をその幕下に組み込んだことで有名である。信玄のつくった甲州軍などそのまま自らの家臣団とした。その包容力が、家康をして天下を取らしめた要因であることは間違いない。