風雲急を告げる尾張東部丘陵

 永禄3年5月19日、これは旧暦なので新暦に直すと、7月の上旬ということになる。梅雨の真っ盛りである。梅雨前線が刺激されてそりゃぁ豪雨も降るでしょうよ。

 前日、駿河の国主である今川義元知立に着陣している。現在の知立駅の北にある知立城に入った。大久保彦左衛門の『三河物語』にも「義元も知立に到着(中略)永禄三年五月十九日に、義元は知立より軍を順々にすすめ大高へ行く」とある。
 これによれば、義元は大高へ直行したように読み取れる。だが『信長公記』の記述は少し違う。「永禄三年五月十七日、今川義元は沓掛に陣を構えた。(中略)御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の息を休めこれあり」となっている。
(中略)としたところは、信長側の動きの記載なので省いたが、要するに、この有名な両書では義元が知立城からどう動いたかがよく判らない。『改正三河風土記』でも、知立着陣までは触れているが、その後、どういった経路で義元が桶狭間まで進んだかは不明となっている。
 ただ、徳川家康関係の資料『朝野舊聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』には「十八日、今川義元、池鯉鮒より尾張国沓掛に至り、諸将を集めて軍議あり」とある。この資料を頼りにするならば、義元は大高に進む前に大きく北へ迂回していることになる。どうにもこの点がワシャには解せない。
 宮城谷昌光さんは、この点を、私見と前置きしながら「沓懸城にはいったのは今川の先陣であり、義元は沓懸城に行かず、主力軍を指揮して大高へむかった」と言われる。
 ワシャもそう思う。知立城、沓懸城、桶狭間はほぼ正の三角形をつくっており、たとえば知立城から桶狭間に向かう場合、沓懸経由では倍の道のりを行くということになる。軍勢として今川軍は織田軍の8倍くらいは動員していた。これだけの多勢を持っていれば無勢の織田軍など正面から攻撃をすればいい。北方からの圧力に備えるというのであれば、それこそ配下の武将に行かせれば事足りる。あくまで主戦場は大高周辺の丘陵地なのである。そこに急ぐこと、これが兵法にも適ったことであろう。『孫子』にも「勢いの力」ということが書かれている。駿府から真っすぐに大高目指して進軍してきたのだ。知立まできて沓懸に回り込むことで「勢いの力」を殺ぐ必要が認められない。

 これまでの戦から考えても、現有の勢力を見ても、今川義元の敗けはなかった。精悍な三河兵を使って、知多半島の根元を切り取ってしまえばいい。知多半島地侍どもも強い方につく。北尾張も同様で、やがて尾張中央部を押さえる織田信長は立ち枯れていくはずだった。
 しかし、これが天佑なのだろう。梅雨どきとはいえ、凄まじい豪雨が尾張の東部丘陵を襲った。おそらくは数メートル先も見えない激しいものだったろう。その豪雨のカーテンが寡勢の織田軍の行動を隠した。
 この豪雨なくしては、その後の織田信長の飛躍はなかったであろう。雨がなければ、義元、大高城を囲む砦群をあっさりと踏み潰し、この地をベース基地として尾張中央に展開していく。そうなれば、元々家臣団の掌握を完了していない織田家である。早い時期に解体し、今川の幕下に組み込まれるか、あるいは北の斎藤氏を頼んでいくか。
 その際に、どうであろう、義元が奇矯な性格の信長を許したかどうか。これは想像でしかないが、資料を読む限り狭量な義元は、奇天烈な信長タイプを許容できなかったに違いない。とすると、敗軍の将に手数をかけて理解するまでもないので、あっさりと抹殺してしまっただろうことは想像に難くない。
 どちちらにしても、信長に運がついていて、義元に運はなかったということだろう。