埴生の宿が聴こえる

 ミャンマーの野党党首のアウンサンスーチー女氏が京都大学龍谷大学を訪問して、学生らの歓迎をうけた。
http://www.ryukoku.ac.jp/news/detail.php?id=4776
 でもね、ワシャらが学生の頃は、ミャンマーではなくビルマと呼ばれていたので、ミャンマーと言われてもピンとこない。やっぱり『ビルマの竪琴』の印象が強いのである。国際的にもビルマを使っている国もあれば、ミャンマーを使用するところもある。要するに口語がビルマで、文語がミャンマーだったということ。
 
 さて、むりむりに『ビルマの竪琴』に持ってきたのは、三國連太郎さんの訃報に接したからである。
 三國さんは、106本の映画に出演してきた。彼のデビュー作が木下恵介監督、野田高梧脚本の『善魔』(1951松竹)である。この時の役名の「三國連太郎」がそのまま彼の芸名となった。木下−野田のコンビだから、この作品はけっこうおもしろい。三國さんの出演の映画の中でも上等なほうに入ってくる。
 その後、松竹、東宝、日活、大映などの映画に出演するが、さほどいい映画には巡りあっていない。それにバイプレーヤーに甘んじる時期が続く。その中でも『ビルマの竪琴』(1956日活)は名作と言っていい。ここでは準主役の井上隊長を毅然と演じている。
 その後も何作かの映画に出ているが、印象に残る作品で、主役を張っていたという記憶があまりない。これは二枚目過ぎるゆえの悲劇なのだろう。
 この時期の主役というと、三船敏郎中村錦之助勝新太郎仲代達矢など個性派が並んでいる。この顔ぶれに比べると三國さんは、いい男過ぎるというか、整いすぎていた。平凡といえば平凡な色男だったのである。
 1965年、内田吐夢監督の名作『飢餓海峡』(東映)で主人公の犬飼多吉を演ずる機会に恵まれる。社会の最下層から這い上がろうとする悲しい男を演じて見事だった。この作品が、三國さんの映画人生の中で3分の1くらいの時期である。1970年以降も、いろいろな映画に出演するも、ワシャには主役としての三國さんが今一つピンとこなかった。『未完の大局』(1982東宝)、『利休』(1989松竹)、『ひかりごけ』(1992ヘラルド)など三國さんがメインの映画も多いのだけれど、どうもその存在感が薄いというのか、焦点のあった俳優という感じがしなかった。
 たとえば、『釣りバカ日誌』(松竹)の立ち位置を感じてもらえればいい。このシリーズにおいて、スーさんこと三國さんは浜ちゃんこと西田敏行とともに主役であるはずだ。しかし、どう観ても西田の個性に食われて、バイプレーヤーの位置に甘んじている。かといって『ビルマの竪琴』で共演した北林谷栄のような名バイプレーヤーだったかというと、そうでもない。普通のわき役だった。
 三國さんが上梓している『出会いの哲学』(世界文化社)の中に、ーー私的「芸術論」ーーという項がある。この中で三國さんはこんなことを言っている。
「ある若い俳優さんと話をした時のことですけれども、その俳優さんは映画における芸術性みたいなことばかりを言っておりました。でもそれは錯覚といいましょうか。考え方が逆ではないかと思うんです。芸術性とは見る側が感じ取るものであって、役者本人が芸術だという意識を持つこと自体、間違いではないかと」
 そうなのか。三國さんは芸術性を意識しないまま演じてきたんだ。それはそれとして俳優のありかたとしてはありなのかもしれない。
 息子の佐藤浩市さんに三國さんは遺言を残した。
「戒名はいらない。散骨してくれ。骨になるまで誰にも知らせるな」
 いかにも三國さんらしい終わり方だと思う。それは銀幕からにじみ出ていた三國連太郎の雰囲気とよくマッチしている。

 ご冥福をお祈ります。