池田さんの話

 池田動物園を知っていますか。
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 岡山市にある動物園ですぞ。と言いながら動物園の話はどうでもいい。その動物園をつくった人の家系の話である。池田動物園をつくったのは池田隆政さんという人だった。池田さんと言っても、ただの池田さんではない。奥様は、昭和天皇の第4皇女の厚子さまである。それだけのお方をお迎えするのだから池田さんのほうの肩書きもきらびやかだ。元侯爵家で、明治以前をたどれば岡山32万石の藩主である。16世紀までさかのぼると、池田家は恒興(つねおき)、輝政という豪傑を輩出している。恒興が父、輝政が息子。この二人が池田家の創業時の功労者と言っていい。
 池田恒興、あるいは勝入斎。出自は戦国時代に勃興した家々と同様に明確ではない。『寛政重修諸家譜』では「清和源氏 頼光流」となっているが嘘だろう。ルーツを楠正行(まさつら)の違腹の子に求め、「数代経て摂津国に居住す」とある。数代というのが曲者で、この間にほとんどの家系は草莽の中にまぎれて、なにがなんだか判らなくなってしまう。もちろん恒興の家系も同様である。恒興の父はその「摂津国に居住したものの後胤」であると書く。『諸家譜』の文面をどう読めば、池田家が頼光の末流になるのか、判じえないが、徳川幕府編纂の公式家系図ではそうなっている。

 ワシャは岡山池田家をくさそうとして文を起こしているのではない。つまり戦国期に頭角を現した多くの武将たちが、各地の野山から出てきたものである。後世、家系誇りをするようになるが、それはみな装飾品の一つであった。
 彼らは、乱世にあって腕と度胸と才覚だけでのし上がってきた、ある意味で魅力ある連中なのである。島津家や佐竹家などの例外を除けば、徳川宗家ですら、三河の山の中から出てきた樵の頭目でしかないのだから、池田家だけどうのというつもりは毛頭ない。
 ともかく池田の一族に、戦国期に恒興、輝政という豪の者が現われる。まずは信長の父の信秀に仕え、尾張平定戦の緒戦に参加する。その後、信長に仕え、一連の天下統一戦に参画する。桶狭間の合戦、長篠の合戦姉川の合戦、名だたる戦いには常に池田の蝶紋の旗印が翻っていた。信長から秀吉に代わっても余呉湖周辺での賤ヶ岳の合戦にも揚羽蝶が舞っていたはずだ。
 そして運命の小牧長久手の合戦となる。この戦で恒興、輝政父子は秀吉方につく。そして突出し、家康方の網にかかって、恒興はあっけない最期を遂げた。その後、輝政の尽力で、豊臣から徳川への政権交代でもうまく立ち回って、播磨52万石の太守となる。激変期にきっちりと勝ち馬に賭けつづけられる輝政の才覚はいかばかりであろうか。
 その後、池田家は幾つも分家をしながら、その勢力を伸ばしていく。二人の豪傑のおかげで池田の家は平成の世になっても栄えている。ううむ、ご先祖様は大切なんですね。

 さて、池田動物園をつくった池田本家である。惜しむらくかな、14代隆政氏にお子様がなく恒興の本家筋は昨年断絶をした。名家がまた一つ消えたのである。
 深い意味はないが、一夫一婦制にすると名家はいずれ先細って絶えていくのではないか。

 たまたま東京駅のあたりの古地図を眺めていて、今回、鹿島建設が造った東京駅が「松平内蔵頭」「松平伯耆守」の上屋敷だったので、ちょいと池田さんに触れたのだった。