この時期には、長篠の合戦

 岐阜市歴史博物館に、江戸時代以前の日本在来馬の実寸大模型が展示されている。体高(馬の背までの高さ)が、ワシャのミゾオチくらいしかない。ぽにーに分類される小型種で、大きな犬といってもいいだろう。映画や大河ドラマで見る鎧武者を乗せて疾駆するサラブレッド(体高170cm)とは違う動物と思った方がいい。小さい割に体重はサラブレッドと同じか、少し軽い程度で、胴回りがしっかりしており、足腰も強い。山岳地帯の多い日本で物資を運ぶのには最適な馬と言える。

 今朝の朝日新聞の文化面は「長篠の戦い」の特集だった。5月21日が設楽ヶ原の合戦の日なのだが、その日が近いので取り上げたんでしょうね。
 厳密に言えば「長篠の戦い」と言えば、設楽ヶ原の東方3kmのところにある長篠城攻防戦のことを指すのだが、戦(いくさ)の華々しさから、一般的には、信長・家康連合軍と武田勝頼率いる甲州軍が全面激突する設楽ヶ原の戦いを「長篠の合戦」と呼んでいる。
 広義に考えれば、天正3年4月から甲州軍は長篠周辺に軍を進め、包囲陣地の構築を始めている。ここから「長篠の合戦」は始まっているのであり、5月1日には長篠城攻撃が開始されている。この日から、甲州軍が敗走する21日まで、この間が「長篠の合戦」全体と考えるのが妥当ではないか。

 さて、その戦についてである。織田鉄砲隊の三段撃ちは『信長記』の作者の小瀬甫庵の創作であることは間違いない。三段撃ちなどなかった。織田・徳川の陣地全体に三段撃ちの鉄砲隊を隙間なく配備すると、少なくとも6000丁、安全を考えれば1万丁の鉄砲が必要だろう。そんな数の鉄砲がそもそも日本に存在していない。
 そして、大河ドラマなどで一大スペクタクルシーンとして見せてくれる馬防柵に迫る武田騎馬軍団も真っ赤なウソである。設楽ヶ原は「原」とは言うが「原」ではなく連吾川という細流をはさんだ谷なのである。織田と武田ががっぷり四つを組んだ戦場は、大方はそんな狭い場所だった。馬が砂塵を巻き上げて走り回ったなどというシーンは実戦ではありえない。

 広義の「長篠合戦」は3週間に及ぶ戦いだと書いた。その内の20日間は、長篠城攻防戦で、城主奥平信昌がほとんど孤軍で奮戦をしたわけだ。
では、5月14日、他の武将たちは何をしていたのか。双方ともすでに2週間を戦っている。どうやら中休みの状態だったらしく、どの記録を読んでも、戦いの記述はない。『寛政重修諸家譜』に依れば、「午前2時に鳥居強右衛門を岡崎に伝令として走らせた」という記載があるだけ。この時、織田信長は部隊とともにまだ熱田神宮におり、徳川家康は岡崎に在城している。
 設楽ヶ原の決戦までには、もう少し時間の経過を待たねばならない。