近江国黒田村

 今月の2日に「黒田官兵衛」のことを書いた。
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20130302/1362180326
 16日には「余呉湖」について記している。
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20130316/1363399810
意外にもこの二つに共通点があったことを見逃していた。
 黒田官兵衛、一般的には「かんべい」で通っているが実際は「かんひょうえ」あついは「かんぴょうえ」と呼ばれている。その黒田官兵衛のルーツを『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)で確認すると、官兵衛の曽祖父の代までは、「近江国伊香郡黒田村に住せし」とあった。だから黒田姓を名乗っているんだね。

 では、黒田村のある伊香郡黒田村ってどこやねん、という話だが、まず伊香郡は琵琶湖の最深部にある賤ヶ岳周辺の郡名である。もちろん余呉湖も含まれている。余呉湖の南の高月町木之本町も郡内で、このあたりだけが唯一の平地となっている。残りは賤ヶ岳以北の伊吹山系西麓の森林が大きく占めている。山間地と言ってもいいだろう。
 次に黒田村である。黒田官兵衛の祖が拝領した村ということになっている。現在は木之本町内の字としてその名を留めている。賤ヶ岳の東の麓にある集落、北陸本線木之本駅の北西500mくらいに位置している。
 賤ヶ岳の合戦で言うならば、完全なる戦闘地域というか激戦地の真ん中のようなところだ官兵衛の故地だった。
 この合戦の折、官兵衛、37歳、浪人として剥落した黒田家が村に別れをつげ流浪の旅に出てから80年の歳月が流れていた。もちろん官兵衛、父祖から出自については詳しく伝えられていたはずである。その地に大軍勢を率い侍大将として再来したときの小気味の良さはいかばかりであろか。
 
 黒田集落の背後(北側)の里山が賤ヶ岳から大岩山に続く山系になっている。その麓に黒田観音寺という古寺がある。余呉湖から見れば南に見える樹林の裏側にある。そこの黒田官兵衛(如水)の墓があるそうだが、官兵衛の墓であるというより、官兵衛の祖先の墓という解釈のほうが当たっていよう。

 なにしろ湖北という土地柄は、歴史の宝庫と言っていい。村落のそこここに山の端のあちこちに歴史の残滓が落ちている素敵なところである。

 そうそう、今日は黒田如水の409回目の命日だった。つねに大いなる野望を秘めていた策士官兵衛、信長、秀吉の末路を見届け、天下分け目の戦いでも不本意な終わり方を余儀なくされ、そして徳川幕府の成立を目の当たりにした。晩年の己の号を「水の如し」とした官兵衛、死ぬ間際、胸に去来したものはなんであったろう。

「大欲は無欲に似たり」と言ったのは兼好法師だったか。あるいは官兵衛、大望が過ぎて、静かなる湖面のように彼岸にいったのかもしれない。