余呉の海

 天正11年(1583)2月末、越前(福井県)はまだ深い雪に閉ざされている。この時期、日本列島は寒冷な時期に入っていた。このため、北陸、越後、東北などでは豪雪が続いている。
 2月といっても旧暦である。そのうえに天正11年は閏1月が2月の前にはさまっていた。このため2月末といっても、太陽暦に直せば4月中旬頃にあたる。本来なら暖かくなっているはずの時期なのだが、北陸には雪が居座り、寒い如月だった。
 当時の北陸街道などけもの道に毛が生えた程度のものだから、積雪は通行の大きな支障となったに違いない。
 そんな不自由な状態の中、越前北庄城の熊が動き始めた。織田軍団の筆頭家老の柴田勝家である。

 少し前段の話をしよう。前年の天正10年6月2日に本能寺の変がおきた。この変で魔王信長が死ぬ。その後、中国大返しを実行した羽柴秀吉が山崎の合戦で主の仇である明智光秀を討ち(槍をつけたのは小来栖の長兵衛ね〈笑〉)、その功績をもって信長の後嗣と遺領の分配を決める清須会議が開催される。この会議で、敵討ちになんの貢献していない勝家は、筆頭という地位を前面に出して、念願のお市御寮人と秀吉の本領である長浜をむりやりにぶんどって北に帰っていった。
 勝家、もどってみればすでに越前には北風が吹き始めている。そこで初めて北陸に封土をもつ自らの不利に気が付き、冬期に秀吉が活発に動かないように和議を画策する。これについても秀吉は心よく応じた。
 おそらく雪は11月に降りはじめたであろう。この年はシベリア寒気団の張り出しが強く、ちょうど今年のように暴風雪警報が出されるほどの荒天となり、一夜にして北国街道は雪に埋まった。
「勝家動けず」と判断した秀吉は、灰神楽が立つようにあわただしく近江、美濃、尾張、伊勢を駆け回り、柴田方の武将をことごとく自らの膝下に参じさせた。
 勝家に盗られたはずの長浜城も、手品のような調略によって取り返していた。わずか3ヶ月で秀吉と勝家の勢力図は一変したのである。
 北庄の勝家のもとには細々と情報はもたらされていただろう。しかし、雪を越えての進軍はきわめて不利なのである。とにかく一刻も早い雪解けを待つしかない。越前海岸に遅い春の兆しが見え始めた頃、織田軍団最強の男といわれた勝家が腰を上げたのである。

 勝家が南下を始めた頃、すでに秀吉のほうは準備万端整えて、熊の巣穴の口で網を張っていた。
 お手元に地図があればご覧いただきたい。なければワシャのヘタな解説で我慢してね。
 勝家のいる北ノ庄城は現在の福井市にある。福井市周辺には小さな平野が広がっているが、少し南に下れば野坂山地伊吹山地に行く手を遮られてしまう。とくに北西から吹き付けるシベリア寒気団を直接受けてしまうこのあたりの山の雪が深い。
 このため勝家の軍勢は、武士も足軽も総動員して沿道の除雪作業から始めなければならなかった。平地でも大変な作業なのだが、これが山間部に入れば、登山のラッセルのような状態になった。
 それでもこの猛将は今庄から木ノ芽峠をこえ、敦賀平野にでて、そこからまた坂を登って湖北の山岳地帯に入っている。おそらくこの悪条件の下で、これだけの強行軍を行えるのは、勇名轟く勝家だからであろう。ここまでくれば近江の国である。雪も路肩に残るくらいのもので進軍に支障の出るようなことはない。この山塊を下れば湖北平野、琵琶湖の舟便を使えば大津は目と鼻の先であり、そこから京都は峠ひとつである。そういった意味では湖北はすでに中原と言っていい。
 勝家、なにしろ中原に出たかった。中原で覇をとなえれば、秀吉と互角に戦える。しかし、策謀では秀吉のほうが一枚も二枚も上手である。そのことを自覚できなかったところに勝家の悲劇があるのだが、多分、死ぬまでそのことを認識することはなかったろう。そういう意味では正直な男だった。

 秀吉にしてみれば、勝家という大熊に中原に出られてしまってはどうしようもない。雪の間に策を弄したのも、中原への北の入り口、余呉湖周辺で押さえ込みたいがためであった。そして秀吉はすでにその準備を終えて、口を締めてしまったのである。平野ではなく狭いところでの局地戦に持ち込むことで、猛将勝家に力を出させない、秀吉側の方策だった。
 この策が当たった。戦況は長くなるのでおいておくが、山岳戦を準備していた秀吉軍が30時間の戦闘に勝利し、敗北を確信した勝家は軍をまとめて北に走ったのである。
 この一連の戦闘が、余呉湖周辺で展開された。琵琶湖の北の端に小さなしずくのようにぽつっとある湖が、秀吉政権確立とための重要な決戦の場だった。
 
 北陸本線余呉駅で降りると、南に余呉湖があり、湖越し真南に見えるのが攻防戦のメインとなった賤ヶ岳である。
 秀吉方の布陣は、余呉湖の東岸の山の手前に高山右近(羽柴方)がこもった岩崎山がある。その稜線の延長にある大岩山には中川清秀(羽柴方)が立てこもった。その山塊の背後に北国街道が南北に走り、その街道の東側の田上山に秀吉の弟の秀長が陣取っている。秀吉の本隊はその南、木之本に陣を敷いた。
 かたや勝家の本体は、余呉湖から5キロほど北の内中尾山に本陣を置く。遊撃部隊主力の佐久間盛政の軍は1万の軍勢を率い、余呉駅から西に見える山の中を北から南へ、賤ヶ岳にむかって行軍している。

「賤ヶ岳合戦図屏風」が各地に残っている。岐阜市歴史博物館にもあったが、ワシャは大阪城天守閣にある「大阪城甲本」という図屏風が気に入っている。
http://www.ibukiyama1377.sakura.ne.jp/shizugatake/4-6.html
 上のサイトの最初に掲げられてあるのが「大阪城甲本」の右隻であり、その一番左の上部にある城が賤ヶ岳城で、その真下に余呉湖が描かれている。
 解説文を一番下までスクロールしていただくと左隻がでてくる。左隻全体の最下部に黄土色というか灰色がかったグレーのっぽいところがあるでしょ。これ、余呉湖なんですよ。拡大してもらうと描かれた波が判ると思います。
 余呉湖の汀でも戦闘が行われていたことを、この図屏風は表している。そういった視点で奥近江の山々や湖を眺めてみれば、きっと兵(つわもの)どもの夢の跡が感じられるかもしれませんよ。

 蛇足ですが、賤ヶ岳山頂から余呉湖を見下ろす眺めは古来より絶景とされており、琵琶湖八景のひとつに数えられているそうな。