功烈主をしのぐ

 秀吉という人物はまことにおもしろい。3月16日に「余呉の海」で秀吉のことを書いて以来、この猿面冠者のことを考えている。
 豊臣になってからはいざ知らず、木下藤吉郎羽柴秀吉のころは、実に多彩な人間学を駆使していた。
 前半生において、主人の信長に対する気の配り方は尋常ではない。たとえば秀吉は大功を嫌った。この時代の武将で大功を嫌うなどありえない話なのである。しかし、秀吉は信長の前で信長をしのぐ功を立てることを避けた。極力、功を信長にゆずり「これも上様あってのことでござる」と神妙に尽くした。
 この反対の例が義経だった。平家討伐に対して、その大功はことごとく義経のものであるし、世間の評価も義経に靡いた。その結果、義経がどうなったかと言えば、主である頼朝から討伐され、衣川で討死と憂き目にあう。まさに功が主をしのいだ結果と言えよう。

 新撰組伊東甲子太郎(かしたろう)という参謀がいた。東京日日新聞社会部編『戊辰物語』(岩波文庫)によれば、伊東、武術ばかりでなく、なかなか学問があったとのことで――ワシャは少し懐疑的ではあるが――後発組ながら、格式は、副隊長の土方と同一に認められた。
 これがいけなかった。甲子太郎、才を誇りすぎ出すぎた。そして、実は新撰組の実質の支配者が土方歳三であるということを見抜けなかった。このあまさが自らの命を縮めることになる油小路の変を引き寄せた。

 似たようなことは、いつでもどこでも、組織が大きかろうが小さかろうが、頻繁に起きている。社長より前面に出過ぎた副社長は左遷されるし、リーダーより目立つサブは嫉妬されて排除の憂き目にあう。

 信長が生きている頃、加賀大聖寺城で秀吉は先輩の柴田勝家と大喧嘩をしている。対上杉謙信の加賀手取川の戦い軍議の席上、織田軍の総大将の勝家と意見が合わず、秀吉は自軍をまとめて戦線離脱してしまう。勝家はいわば信長の名代である。それに信玄亡き後、越後の謙信は織田最大の強敵だった。強敵に対する総力戦を離脱したのだ。秀吉の行為は信長への反乱ととらえられても仕方がないほどの罪科と言っていい。
 秀吉が、義経であったり、甲子太郎であったりしたら、どうであろう。おそらく信長の逆鱗に触れ、よくして切腹、悪くすれば八つ裂きであった。
 事実、安土城まで弁解に出かけた秀吉に信長は、目通りも許さず、使い番にこれだけを伝えさせた。
「子細など聞く耳はもたぬわ!おれがすべきはうぬを殺すことだけだ。追って沙汰するまで長浜で謹慎せよ」
 この危機を、普段から見せている衷心によって回避し、その後も信長軍団の中で重きを成していく。

 成功者は、秀吉にしろ、家康にしろ、己の殺生与奪の権をもつ者には本心を明かさないもの、功烈、主人をしのぐようなことは絶対にしないものなのである。