昔の気候

徒然草』で吉田兼好がこんなことを言っている。
《家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころわろき住居(すまい)は、堪へがたきなり。》
 つまり、「住宅は夏に快適に住めるように作れ」と言っているのだ。鎌倉時代の末期には板戸を開ければアッパッパーになって、建物の中を風が吹きぬけていくような通気のいい家が良しとされていたのだ。徒然草絵巻に兼好の住居が描かれている。それは柱と藁屋根の掘建て小屋で、冬はとても過ごせまい、というシロモノだ。これじゃあ冬は寒くて凍えてしまうのではないかいな、と頓着してしまうが、心配ご無用!兼好が活躍していた13世紀後半から14世紀初頭にかけては暖かい時期だったのである。だから冬も暖冬だった。火鉢に着物の重ね着でしのげたらしい。
 時代は下って16世紀末、この頃の北半球は寒冷化していた。日本もイングランドも冷え込んだ。
 この寒さに救われたのが、羽柴秀吉という侍だった。秀吉は、本能寺で頓死した織田信長の後継を巡って北陸の覇者柴田勝家と争っていた。雌雄を決すべき時に冬になった。豪雪が北陸路を埋めた。大事な時に勝家は身動きが取れず、その間、雪の少ない東海、近畿で秀吉が盛んに動き回った。この運動の差が次の春の決戦の明暗を分けたのである。もし、この時期の北半球が温暖であったなら、勝家は大軍団を率いて近江に入り、調略の進まぬ秀吉軍を叩いて天下を我がものにしたのかもしれない。

 参考までに日本の気温の移り変わりを書いておく。
 仁徳天皇(5世紀)から聖徳太子(6世紀)のころは寒冷化の時期で、その後7世紀に入って温暖化してくる。藤原氏が台頭してくる9世紀の半ばにはとても暖かい時期が50年ほど続いている。10世紀初頭というから菅原道真大宰府に左遷された時期から寒冷化が始まった。200年ほどかけて気温が低下して、ちょうど平清盛が活躍した時代がとても寒い時期となっている。この頃は、夏でも寒いヨイヨイヨイ♪だった。壇ノ浦の合戦が旧暦の3月24日である。今なら4月下旬か。それでも北半球全体がこの2000年中で最も冷えた時期だから、入水した公達姫御前もずいぶんと冷たかったことだろう。その後の鎌倉期は比較的温暖な気候に戻る。だから冒頭の兼好は掘建て小屋でも冬を越せた。その後、少し寒い時期と適当な時期を交互に経ながら、18世紀半ばから19世紀半ばまでの100年が思いきり寒かった。享保天明天保の大飢饉が起こったのもこの時代だ。その後、明治、大正、昭和とだんだん暖かくなって現在に至っている。