西竹一(にしたけいち)

 人事異動の季節である。ワシャのように会社務め(笑)をしていると、3月末に一喜一憂することになる。異動については、人事部が大枠を決めて、その後、副社長、社長と了解を得て、その後、社員に発表される。
 ただ、社長、副社長クラスになると、全社員の動向を把握しているわけではなく、やはり人事の部長や課長の裁量にゆだねざるをえない。そうだなぁ、我社でいくと人事部長がほぼ決めたと言っても過言ではあるまい。
 人事異動は毎年ある。時には年度半ばで異動が実施されることもあった。それでも大きな異動はやはり年度末ということになる。これが面白くてね(面白くなくてね)、人事部長の性格で、当然のことながら人事の色合いが変わる。大胆な部長が行うと、意外な抜擢人事があってうならされたりする。小心で真面目だけがとりえのような部長の場合、年功序列のつまらない配置換えになることが多い。
 さあて、今年の人事異動がどうなるか、楽しみですな(笑)。

 ワシャが尊敬する人物に西竹一というオリンピック選手がいる。第10回ロサンゼルスオリンピックにおいて馬術競技で金メダルをとった人である。あるいは「バロン西」と呼んだほうが通りがいいかもしれない。簡単に略歴を記す。
 西徳二郎男爵の三男として生まれる。長じて学習院初等科に入学すると、日々、近隣の番町小学校の番長と喧嘩に明け暮れる毎日だったという。府立一中から陸軍幼年学校に進み、華族として馬術をたしなんでいたことから騎兵を選択した。
 この幼年学校時代に、ワシャがもっとも嫌っている愚将の一人である辻政信が同期だった。辻は主席を張っていたが、西の成績がどうであったのか寡聞にして知らない。しかし、秀才だった辻は、兵員を殺し自分だけが生き延び、西は部下とともに常にあったことは確かである。
 幼年学校から陸軍騎兵学校に進み、卒業後、習志野騎兵第16連隊に配属となる。その時に愛馬ウラヌスとともにオリンピックに出場し金メダルに輝く。その後、陸軍騎兵大尉に昇進、陸軍騎兵学校の教官を経て、戦車第26連隊の連隊長を拝命、満州北部(北満)防衛の任に就いた。
 1944年6月20日硫黄島への動員が下令され、西中佐は満州から日本内地経由で硫黄島へ向かう。そのあたりの経緯は、城山三郎の短編『硫黄島に死す』に詳しい。激戦の最中に硫黄島の坑道の中で西に対して見習士官が、オリンピックの英雄であり華族でもある西中佐が硫黄島配属になったことについて疑問を投げかけているセリフがある。その部分を引く。
「玉砕予定の硫黄島に送られたということをどう考えておられるのですか。何か底意地の悪さといったものを感じられないのですか」
 この疑問に対して西は「光栄だ」とのみ答えた。この潔さが好きなのである。
 おそらくこの部分は城山さんの創作だと思う。しかし、その創作を真実と思わせるほど、西中佐の清々しい生きざまを、史実を交えて描ききっている。城山さんの筆力畏るべし。

 西中佐の同期に辻政信がいたと前述した。辻についてはここに詳しく書いている。
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20110512/1305153617
 辻は、陸軍幼年学校主席でエリートとして参謀本部勤務となった。かれがエリートコースに乗れたのは、秀才だったということもあるが、実は軍官僚としての責任逃れを巧みにすることができた上に組織の中でどういうふうに動けば損か得かを熟知していたからに他ならない。
 三宅坂参謀本部にあって、軍隊将棋でもやるように駒を動かすことに快感を得ていたのだろう。この際に幼年学校で一緒だった西竹一の顔を思い浮かべなかったとは言い切れまい。西の出自の良さ、物腰の爽やかさ、容姿も写真を見る限り、西に軍配を挙げざるをえない。要するに西に辻が勝てるのは記憶力と世渡りの巧みさだけだった。おそらく主席を張りながらも、辻の内心には嫉妬の炎が燃え盛っていたはずだ。
 城山さんは「底意地の悪さ」という言葉でそのことを暗に示した。ワシャはこのフレーズを読んだ時に、すぐさま辻政信の顔を思い浮かべたものである。人事とはことほどさように作為的なものであり、人の嫉妬とか、派閥の理屈が優先するものだと考えていたほうがいい。

 西竹一中佐、実は硫黄島から生き延びる機会は何度もあった。それは史実として残っている。しかし、彼は逃げなかった。最後の最期まで帝都を守るべく部下とともに戦い抜いた。
 硫黄島守備隊の戦死者は22790人。総員23000人であったから、その率99%であった。もちろん運命から逃げなかった西中佐もその中に入っている。

 1945年3月17日、硫黄島守備隊、全滅。