夏目漱石の『坊ちゃん』に古賀先生という聖人君子が出てくる。彼は佞人の赤シャツにはめられて、松山の中学校から日向延岡の学校へ異動とあいなった。
このフレーズを読んでいて、子供心に「えらく遠いところに飛ばされたものだ」と思ったことを覚えている。
子供のイメージとして、松山から瀬戸内海をわたり広島から汽車に乗って下関、下関から門司にまた船でわたり、そこから大分を通って宮崎県に向かう。そんな経路を描いていたのである。
先日、ふと思った。
「まてよ、陸路で考えると松山と延岡はものすごく遠いけれど海路ならそれほどのことではないかも」
漱石が松山中学校に赴任するのは、明治28年である。そのころの鉄道網を見てみると、広島県以西に鉄道は敷かれていない。もちろん関門海峡にトンネルはあろうはずもないから、どちらにしろ船で海峡をまた渡ることになる。門司から宮崎へも鉄路はない。そうなれば馬か自分の足で歩くしか宮崎の延岡に行く方法はないわけだ。そりゃあ遠い。
でもね、海路をとるとしたらどうだろう。事実、『坊ちゃん』にはこんな記述がある。
「古賀さんが立つ時は、浜まで見送りに行こうと思っているくらいだ」
同僚の山嵐のセリフである。
この「浜まで」というのをワシャは広島にわたる船と思っていた。しかし、考えてみれば、それよりも伊予灘を浜沿いに西に向かい、佐田岬から豊予海峡をちょいとこえれば大分県の関崎だ。関崎からやはり船でリアス式の海岸線を愛でながら少し南下すれば延岡は目と鼻の先である。
もともとこのあたりは海上交通の盛んなところである。ちょっとした漁師なら松山―延岡など目と鼻の先ということだろう。漱石や坊ちゃんのように、東京から赴任してきている人間もいるのである。そこから見れば、松山と延岡など隣町のようなものだ。坊ちゃんもそう憤慨する話でもあるまい、そう思った。