本音と建前

 ガキと言えばガキなんだろう。建前で生きることとか、建前で話すということが、苦手なんですね。心にないことを――そんなことは微塵も思っていないのにも関わらず――、平然と建前を口にする人がいるが、口が腐らないのかと心配になる。

《幹事が立って一言開会の辞を述べる。それから狸が立つ。赤シャツが立つ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合わせたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、一身上の都合で、切に転任をご希望になったのだから致し方ないという意味を述べた。こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥かしいとも思っていない。ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大いなる不幸であるとまで云った。》

 夏目漱石の『坊ちゃん』の古賀先生の送別会の場面。佞人の赤シャツが、恋のライバルのうらなり君を、日向延岡に飛ばすための裏工作をした結果の送別会である。赤シャツ、内心は「ざまあみろ」と思っている。しかし口先では「この良友を……」なんてことを平然と言ってのける。嫌な奴だ。だからラストシーンが痛快なんだけどね。
でも、実社会になれば、そんなことは日常茶飯に起きている。まだうらなり君なんかいいほうで、昇給をして延岡に赴任なんだから、あんまり文句を言っちゃあいけんぞな、もし。
話がずれた。現実の社会では、腹に一物持っていても、表面は体裁よく取り繕って善人を演じる……こういった人、こういった行動が、大人だと評価される。だが、ワシャにはそれがどうにも歯に合わない。言うべきとことは、きっちりと指摘をするし、言葉の通じない輩には、罵声を浴びせかけたこともある。若い頃には、坊ちゃんのように鉄拳制裁も辞さなかった。
しかし、さすがに年を重ねて落ち着いた。なりたくはないが、世間という芋盥の中で洗われて、坊ちゃんより、赤シャツに近づいたのかもしれぬ、いやいや、野だいこのほうでゲスか?

 少しは大人になっているのかもしれないが、それでも基本的にワシャは人と付き合うときに、なるべく本音で付き合おうと思っている。
初対面の人でも15分くらい話せれば、ポロリと本音をチョイ出してみて、それを相手が許容してくれるなら、本音での話しに徐々に切り替えていく。この最初のポロリに気づかない人、その後もまったく本音を見せない人とは、それきりにして、なるべく距離をとるようにする。

 作家の曽野綾子さんがこんなことを言っている。
《私は今までの人生であった人の六十パーセントくらいを心から好きになったと言える。》
 曽野さんの言われる「好きになった人」には「知的レベルの高い人、ものごとを正視できる冷静さを持った人」に加えて「変わった癖の持ち主、おかしな人、笑うような個性のある人」も含まれている。この基準によればよほどの人は曽野さんに好きになってもらえそうだ。
 曽野さんは続ける。
《三十五パーセントは、私には縁のない性格に思われた。》
 これは「権威主義者」「思想、行動においてささやかな勇気の片鱗も持ち合わせぬ人」である。曽野さんは、この人たちと関わりを持ちたくないと言う。
 最後の5%である。この塊を曽野さんは嫌悪しておられる。他人の非をことさら詰って「謝れ」とか「絶交」を宣言したりする輩だ。曽野さんは、例として『半沢直樹』を挙げているが、相手に屈辱だけを与えるやりかたは「策の愚」なるものと説いている。
 嫌悪したからといって、切り捨てるというのではない。「敬して遠ざける」これでいいのだ。ううむ、このあたりにも本音と建前が微妙に混在するんだね。
 大人って難しい。