花晨亭の宴

「かしんてい」と読む。松山の料理屋である。実際にはない。夏目漱石の『坊っちゃん』に出てくる古賀先生の送別会に使われた店である。
《会場は花晨亭と云つて、当地で第一等の料理屋ださうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷を買ひ入れて、其儘開業したと云ふ話だが、成程見懸からして厳めしい構だ。》
 ここの描写のあと、教師50人による送別会が始まる。御膳が出る。徳利が並ぶ。開会の辞に続き、狸(校長)と赤シヤツ(教頭)の送別の辞である。
《申し合せた様にうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大に惜しむ所であるが、御一身上の御都合で、切に転任を御希望になったのだから致し方がないと云う意味を述べた。こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥かしいとも思って居ない。ことに赤シヤツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。此良友を失うのは実に自分に取つて大なる不幸であると迄云った。しかも其いい方がいかにも、尤もらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でも屹度だまされるに極ってる。》
 古賀先生は、赤シャツにはめられて日向延岡に左遷させられるのである。そんなことは満座の衆には周知の事実。しかし大人は本音を隠して、建前の笑顔で宴を務める。要するに坊っちゃんはガキなのだ。
 赤シャツの美辞麗句のあとに、山嵐がぬっと立ち上がって本音を披露する。
《只今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望して居ります。延岡は僻遠の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞く所によれば風俗の頗る淳朴な所で、職員生徒悉く上代樸直の気風を帯びて居るそうである。心にもない御世辞を振り蒔いたり、美しい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君の如き温良篤厚の士は必ず其地方一般の歓迎を受けられるに相違ない。吾輩は大に古賀君の為めに此転任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任されたら、其地の淑女にして、君子の好述となるべき資格あるものを択んで一日も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なる御転婆を事実の上に於て慚死せしめん事を希望します。》
 山嵐も純粋ではあるが子供である。こういうことを言って手を打つのは坊っちゃんくらいのもので、あとの歴々は鼻で笑っている。

 物語のクライマックスで、坊っちゃん山嵐が、赤シャツと野だを襲撃するにいたっては、もう大人のすることではない。子供こども……。
 しかし世の大人たちはこの二人のやり方に爽快なものを感じて、拍手喝さいを送るのである。