利休忌に

 天正19年(1591)2月28日、茶人の千利休が秀吉の命により切腹した。
 教養はないが芸術家だった成り上がり者の秀吉が、大教養人の利休に敗北を喫した日でもある。
 
 2月25日の日記に「利休が秀吉に負けた」と書いた。舌の根も乾かないうちに、今度は「秀吉が利休に負けた」と書いている。我ながらいい加減なやっちゃ。
 まぁ皆さんはワシャのいい加減なことはよく知っておられると思うので、続けますね。

 2月25日に書いたように、秀吉は芸術家としては一流だった。黄金の茶室もその代表的なものだが、他のものを見ても、作るもの造るものどれもが意匠に富んでいて、アートと言っていい。秀吉が造った聚楽第からの移築と言われる京都西本願寺飛雲閣、現存はしないけれど秀吉の築いた大坂城(模型は大坂城天守閣に模型がある)、小ぶりなところでは、伝ではあるが秀吉所用の色々威二枚胴具足
http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/kouhoushi/documents/tayori-29-2.pdf#search='%E4%BC%9D%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E6%89%80%E7%94%A8%E8%89%B2%E3%80%85%E5%A8%81%E4%BA%8C%E6%9E%9A%E8%83%B4%E5%85%B7%E8%B6%B3'
 ここに写っているのがそれ。ワシャは鎧好きでいろいろなものを見て歩いているが、これは秀吉のセンスがうかがわれるきれいな鎧でしたぞ。
 それから金天目もとんでもない作品だった。下のURLをクリックして、スクロールしてもらうと仏様の下のほうに金天目・金天目台がある。
http://www.kyotodeasobo.com/art/houmotsukan/daigoji-temple/04daigoji-3.html
 このように秀吉は芸術作品をいくつも手掛けているのだ。それは天賦の才と言っていい。

 しかし、利休の茶は秀吉のめざすアートとは対極にあった。利休作の「泪の茶杓」を見たことがあるが、それはそれははかなげで、装飾性をいっさい否定した茶杓である。大坂城、黄金の茶室の対極にあるわびを感じたものだ。

 どちらもいい。茶を通してアーティストの秀吉と総合芸術家の利休が真っ向から対立をした。そして最終的に利休が意地を貫き、秀吉の鼻をあかしたのだった。茶の湯では、茶の湯全般の深い教養を持っている利休に軍配が挙がる。しかし、秀吉は天下人だもの、阿呆扱いされれば、そりゃ怒りますわなぁ。その結果の切腹である。利休は泰然と死に臨んだに違いない。

 でもね、やはりあの黄金の茶室を思い出すと、果たして利休は秀吉に勝ったのだろうか、と思ってしまう。お互いがそれぞれのアートの世界の中で大成していたのではなかろうか。その中で極めすぎ、相手のことがよく見えなかったのではないか。
 そこでここに戻ってくるのだが、秀吉にもう少し茶の湯の教養があれば、至宝を殺すことはなかったように思う。