ネットを見ても、新聞紙を寛げても、ピ~ンとくるニュースはなかった。唯一大相撲が明るい話題なんだけど、今日が千秋楽なので、このネタは明日に譲りたい。
先日、近くのブックオフで10冊ほど本を買ってきた。その中に210円で『四季の花火を見に行こう』(講談社カルチャーブックス)がある。
上記URLののっけにタイトル入りで出ているのが本の表紙でヤンス。ヤフオクでもアマゾンでも200円前後で入手可能なので、大してお得でもなかったようだ。
でもね、家に帰って書庫でページを繰っていたら、これがとても癒されるんですね。表紙裏は山下清の「富田林の花火」、内表紙は大曲の「椰子」と「小割」、目次は伊勢神宮の「滝」。以降、春夏秋冬で各地の花火がグラビアで楽しめる。このクソ武漢ウイルスのせいで全国の花火大会が中止を余儀なくされてしまった。しかしやっぱり花火はいい。グラビアでも美しいなぁ。このあたりのものだと岡崎の花火が出ているが、いいですねぇ。何度も行きましたが、火薬の焦げたようなにおいと、人いきれと、屋台のタコ焼きの香りと、ああ、あの雑踏が懐かしい。
そうそう、評論家の呉智英さんが「週刊ポスト」の9月4日号の連載に「次は花火だ」と題したコラムを書いておられた。これは名コラムだと思った。
現代芸術の名を借りた「公金たかり構造」を持つ「あいトリ」の「表現の不自由展」を愚行であると指摘し、たかり屋たちが「現代芸術は難しい」と嘯いているのを、「そんなことはない、分かりやすい」として、田中一村や高島野十郎を挙げておられる。確かに彼らの現代芸術のクオリティーは高く、そして見た途端に心が震えるほどである。呉さんも、野十郎の『月』を見て、「吸い込まれるようだった」と書いている。呉さんの言を引く。
《田中一村にしろ高島野十郎にしろ、作品そのものが感興を呼び起こす。一方、総じて現代芸術には、既存の芸術にケンカを売っているんだぞというあさはかな理屈にしか見えない。理に落ちている。》
呉さんはやはり大人だ。言い方がやさしい。ワシャには「不自由展」にならんだゴミは、ゴミとしか認識できなかった。ぜひ、田中一村と、あのゴミのカマクラのごときゴミのカタマリを比べていただきたい。
呉さんは、「花火」を壮大な現代芸術だと言っている。そのとおりだ。これがこのクソ武漢ウイルスで大打撃を受けている。まず、公金を入れるべきは、「現代芸術」に名を借りたたかり野郎どもではなく、花火という伝統文化をコンピューター制御で緻密に構成した現代芸術を提供してくれる花火業界であろう。
北海道の「ウポポイ」もそうだけれども、こういった公金を侵蝕する害虫には注意をしなければならない。
害虫に騙されて、血税を気前よく配っている政治家をバカという。こういうやつは花火のように潔くないんだよね(笑)。