天正19年2月28日、現在の暦でいえば4月の下旬であった。
そんな日に、一人の茶人が切腹をした。千利休である。利休の死の原因は、さまざまな憶測が加えられているが、これといった有力な説はない。間違いないのは、時の最高権力者である豊臣秀吉の逆鱗にふれて堺に追放されたということ、堺に蟄居している際に、周囲から秀吉への謝罪をすすめられたが利休が拒否をしたことなどである。
山本兼一『利休にたずねよ』(PHP文芸文庫)によれば、利休は秀吉に「美の追求」という一点において譲らなかったので、死を賜ったことになっている。おそらくはそうであろう。秀吉は、低俗な派手好みではあったが、それを極めて超俗の域に達している。まさに侘び寂とは対極にあるところでの茶を極めていた。その両極の二人が茶の意地をかけた戦いが繰り広げられ、その結果として利休の切腹とあいなった。
秀吉は権力者である。何様であろうと茶頭(さどう)一人の首を取るのはたやすい。しかし、それでは秀吉が勝ったことにはならないのである。茶人としての利休が「私の茶は間違っておりました。上様の仰せのとおりの茶の湯を認めます」と心底からひれ伏さなけれがならない。そんなことは茶の湯の世界の巨人である利休にのめるわけがない。秀吉も天下一だが、利休も天下一なのである。
結果として利休は名をとって命を捨てた。ゆえに利休の名は歴史に大きく刻まれたのである。