下手の考え休むに似たり

 作家の池波正太郎さんは京都好きだった。毎年、年末に京都入りし、数日間をぶらぶら過ごすのが何よりの楽しみだと、どこかに書いてあった。
 池波さんは食通でも通っており、京都市内のおでん屋とか居酒屋などの名店を発掘している。『剣客商売』や『鬼平犯科帳』にも、随所に食べ物の話が出てきて、それがまた美味しそうなんですね。

 何年か前にワシャも京都に行った。近いのだけれど、池波さんのように毎年は行かれない。その時は、確か京都文化博物館で「白隠展」をやっていたので、それを見に行った。
 白隠白隠慧鶴(はくいんえかく)という臨済宗の高僧である。臨済宗中興の祖とも言われている。この人、1万点にも及ぶ禅画を描き残した。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/12_hakuin/topics/
 上記は渋谷文化村で開催されている「白隠展」のチラシだが、こういったユーモラスな絵を描く。それを何年か前に見に行ったのである。絵はもちろんよかった。めっけ物だったのは、売店白隠禅師の法語集の『於仁安佐美』(禅文化研究所)を見つけたことである。いい本との出会いとなった。本のタイトルは「おにあざみ」と読む。この本、死について多く語られている。読んでいたく考えさせられたなぁ。
 白隠の言葉を引く。
「誰でも往々に、生あることは知っていても、死があることを知らずに、有為名利のことばかりしていて、死ぬときに三塗の苦しみを受けることになる」
「生きながら死して働く人こそは、これぞまことの仏なり」
「志あらんずる武士は、毎朝胸の上に死の字を二三十ずつ書すべし」
「死字に参究しなければ、一大事があって、身命を顧みず仕事を果たすべき時になっても、何のはたらきもできない。大いに驚きあわててへまをやり、臆病者のふるまいを仕出かし、これまでの信用を失い、親類縁者の顔をつぶすことになる。これすべてみな、大事の至るまでに死生をはっきりと明らめることができなかった大不覚者のなれの果てである」
 ワシャなんか、思いきり大不覚者だわさ。

 その「白隠展」の折に、食通の池波さんを気取ったわけでもないのだけれど、京都文化博物館にほど近い京料理屋へ立ち寄ったものである。名前も失念してしまったが、裏通りに白い暖簾の下がった古い京町家で、お重の中に小鉢が並べられ、そこに上品な京料理が盛ってあったことを思い出す。少し飲んだ昼酒が美味かった。

 さて、池波さんである。池波さんも烏丸三条界隈に出没している。時代小説の名手にしてみれば、京都文化博物館は重要な情報ソースであったに違いない。
 これは有名な話なのだが、京都文化博物館の一本東の堺町通りにある「イノダコーヒ」という喫茶店は池波さんの行きつけの場所だった。池波さんのエッセイ『むかしの味』(新潮文庫)に登場する老舗のコーヒー店。ここで、コーヒーを飲みながら、大好きな煙草を燻らせていたのだろう。「イノダコーヒ」のレギュラーは、モカをベースにした深焙りのヨーロピアンタイプ「アラビアの真珠」である。

 先日、親しい方から、この「アラビアの真珠」をいただいた。いとうれし。久しぶりに、イノダのコーヒーを片手に、タバコは吸わないけれど、池波さんを気取って思索にふけってみようかな……(笑)。