死ぬほど忙しくはない

 それにしても、土曜日の「哲学講座」の面々は、読書量のレベルが違う。講師の先生は哲学者であるから、そもそもワシャのような普通の人間とは心構えが違うのはわかる。しかし、それ以外の参加者たちにしても、かなりハイレベルな本読みたちばかりなのだ。

 

ボーヴォワール『老い』(人文書院

エリクソン『老年期』(みすずライブラリー)

シェリー・ケーガン『「死」とは何か』(文響社

エドガー・アラン・ポー『ヴァルドマアル氏の病症の真相』(創元推理文庫

エピクロスエピクロス 教説と手紙』(岩波文庫

ルクレティウス『物の本質について』(岩波文庫

ノージックアナーキー・国家・ユートピア 国家の正当性とその限界』(木鐸社

シオラン『生誕の災厄』(紀伊国屋書店

ベネター『生まれてこなかったほうがよかった――生れ出るという害悪』(すずさわ書店)

野崎まど『バビロン』(講談社

 

 これらの本が紹介されたけれど、残念ながらワシャは1冊も読んでいない。「死」についての蔵書も数多所有しているが、上記の本はなかった。 また徐々に入手し読んでいきたい。

講義を聴いていて思ったのだが、どうもヨーロッパの「死生観」と日本のそれはずいぶんと違うなぁと思った。日本人の場合、「死」がある種の名誉である場合がある。たとえば武士の「死」は戦場であればもちろんそうであるし、何かの責任を取っての切腹にしても、それは名誉なことだった。

臨済宗中興の祖である白隠禅師は、侍に「死を自覚して生きよ。毎晩、就寝前に胸に『死』の字を何度も書いて寝るがよい」と語っている。

 

 おっともう出勤時間がきてしまった。今日は午前中から打ち合わせがいくつも入っている。午後も、会議(傍聴だけだけど)があって、最終的にはヘビーな「読書会」がある。その読書会の理論武装もしておかなけれなならない。忙しい。