今日は親指を握って読んでね

 昨日は、夕方に一旦職場を離れたのだが、午後7時にまた呼び出されて職場に戻る。ワシャ的には、このところ仕事にボリュームがあるので、なんだか夜討ち朝駆けのような状態になっている(苦笑)。

 

 それはそれとして、やっぱり趣味的なことにも興味が惹かれる。趣味というと変だけれど、先日、名古屋で「死」についての講義を受けたことが心に残っている。

 例そもそもワシャは小学校3年生の頃から「死」を考えてきた。その頃は考えるというより怖がっていたんだろう。だから、タイトルに「死」の字がつくと手当たり次第に買ってきた者だった。だから、ワシャの本棚には「死」についての本がかなり多い。

 臨済宗中興の祖である白隠禅師の本は「死に方」(=生き方)の書物であるし、中村元の『ブッダのことば』『ブッダ最後の旅』『ブッダ神々との対話』(岩波文庫)の、どれにも「死」の項目が盛られている。「正法眼蔵」「歎異抄」にも「死」がつきまとう。そもそも仏教哲学は「死」とはなにかを考えるものだった。その他にもいくらでも並べられる。

『「死」を哲学する』『死ぬための教養』『死ぬことを学ぶ』『死に至る病』『「死ぬ瞬間」をめぐる質疑応答』『あの世この世』『死に方上手』『死はこわくない』『死の思索』『詩と死をむすぶもの』・・・・・・。

 ここらで止めておきますが(笑)、まだまだいくらでも並べられる。本棚一本「死」で埋まっていると言っていい。「朝っぱらから縁起でもない」と縁起を担ぐ方は、親指を掌で握りしめながらお読み下され。

 

 ワシャの気に入っている一冊に、そのものズバリの『死』(蝸牛社)という本がある。俳人の倉田紘文氏編の秀句集で、全編「死」の句で埋まっている。

 

 露の世はつゆの世ながらさりながら

 

 その中で一番気に入っているのが一茶のこの句である。解説を写しておきますね。

《一茶57歳の時、長女さと女を失う。この世のはかなさはすでに十二分に知りつくしている一茶が、今またこうして新たなる悲しみの中で世をはかなんでいるのだ。「さりながら」の絶句が胸に突き刺さってくる。どうしても諦めきれないのだ。》

 ううむ、57歳、若いじゃないか。まぁしかし人生50年の頃のそれであるから、今の感覚よりもっと老成していたのかもしれない。ワシャはまだこの世のはかなさを知りつくさず、一茶に比べればガキのようなものである。しかし、その一茶ですら世のはかなさの中で立ち尽くしている。いわんや凡夫ワルシャワにおいてをや。

 

 白隠の書籍『邊鄙以知吾(へびいちご)』と『於仁安佐美(おにあざみ)』から。

 

「死の字は、第一武士の決定すべき至要なり。死の字を参究せざらむ武士は、心身ともに惰弱にして、主心定まらざる故なりと」

「志し在らんずる武士は、毎朝胸上に死の字を二三十宛(ずつ)書(しょ)すべし」

 

「生きながら死して働く人こそは、これぞまことの仏なり」

 とは、至道無難禅師の歌である。