明と暗

 昨年の3月20日の日記
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20120320/1332197170
薩摩藩士の村田新八の長男である岩熊のことを書いた。民謡「田原坂」の歌詞を引いて《冒頭の「右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな美少年」とは、村田岩熊のことである。》と結んだ。
 岩熊は、田原坂の戦闘後に植木という在所に転戦しそこで戦死する。その時に数えで18歳と言われている。ということは満年齢で16歳、そこから逆算すると1861年生まれだと推察できる。
 彼と同い年で、やはり鹿児島に生まれた人物がいる。名を伸熊という。岩熊といい伸熊といい、強い動物にあやかろうというのがこのころの流行だったようだ。
 岩熊は、西郷隆盛の右腕、村田新八の長男である。さて伸熊はというと、こちらは西郷の盟友の大久保利通の次男である。どちらも鹿児島の御城下に生まれている。あるいは幼少期に郷中組織に組み込まれて、顔を合わせているのかもしれない。

 その伸熊、10歳のおりに父とともに岩倉遣外使節団に同行し、アメリカ留学をはたす。3年をフィラデルフィアで過ごし、帰国後は東京開成学校(東京大学)に入学する。村田新八使節団に参加しているが、その子、岩熊を伴ったという記録はない。だから岩熊は、鹿児島かあるいは東京で母とともに暮らし文武に励んでいたものと思われる。
 そして運命の明治10年、岩熊は西南戦争に西郷軍の分隊長として熊本の地で散った。かたや伸熊は開成学校文学部に所属し漢文を学んでいる。同じ鹿児島の維新の志士の子でありながら、西南戦争がその明暗を分けた。

 その後、伸熊は伸顕(のぶあき)と改名している。幼少時に遠縁の牧野家に養子にだされているので、名乗りは牧野伸顕となる。牧野は開成学校を辞し、外務省に入って、ロンドンの日本領事館勤務している。帰国して、天津条約の際に全権大使の伊藤博文随行し清国に出張したりもした。
 後年、文部大臣、枢密顧問官、農商務大臣、外務大臣などを歴任する。大正7年には、パリ講和会議の日本全権に任命されている。外交畑でどんどんと伸していく。
 明治39年に外務省に入った吉田茂は、牧野からその人物を認められ、牧野の娘の雪子を娶ることになった。吉田茂と雪子の娘の和子は麻生財閥の総帥の麻生太賀吉と結婚し、第92代の総理大臣となる麻生太郎を生む。
 伸熊の血脈の流れから、出来の良し悪しはともかく、内務卿の利通以来の総理大臣が誕生したわけだ。
 長命をした伸熊は、大東亜戦争終結を見、女婿の総理大臣就任を見極め、88歳の天寿を全うし、昭和24年1月25日に彼岸へと旅立った。

 一方の岩熊のほうは、たぶん童貞だったろう。自らの血をどこにも残すことなく歴史の激動の中にひっそりと消えていった。唄のみが彼の存在を伝えてはいるが、それすらすでに少年=岩熊であったことも朧(おぼろ)になってきている。

メモ(理)