めてに血刀 ゆんでに手綱

 血刀とは物騒なタイトルだが、これは「田原坂(たばるざか)」という唄の詞の中に出てくるフレーズである。
「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂 右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな美少年」
 ワシャはこの唄がとても気に入っている。

 唄の中に出てくる田原坂は、熊本城の北北西10キロほどのところにある長さ1.5km、標高差60mの然したることもない坂である。
 明治10年(1877)3月中旬、田原坂が糠雨に煙っている。修羅の坂を、少年剣士が馬を進めてゆく。右手には血刀を下げ、それを雨が洗っている……情感あふれる景色ではないだろうか。
 映画の一場面として見れば、まことに結構だが、現実の戦(いくさ)となると情景にひたってばかりはいられない。

 この美少年の所属する薩摩軍は三万。戦国時代から、あるいはそれ以前からも薩摩の武士は最強だった。江戸期もその修練怠りなく、多分、この時期にあっても日本はおろか世界の軍兵の中で屈指の強さであったろう。
 実際に「薩摩兵が来た」という噂だけで大阪、東京を中心部隊とする政府軍は蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。そんな逸話も残っている。
 兵については、最強の薩摩軍と惰弱な政府軍で差はあった。しかし、いかに兵が強くとも、それ以上に兵站の格差が大きく、それが政府軍を利した。政府は瀬戸内海という海道を使って、大阪方面から続々と兵員、物資、弾薬を博多湾に陸揚げをしている。
 かたや薩摩軍は、そもそも兵站という思想がなかった。本拠の鹿児島を守備するわけでもなく、もちろん兵站部隊など持っておらず、全軍が西郷とともに乱舞するように進軍してしまった。
 政府軍は、しっかりした兵站に支えられている。弱兵とはいえ、最新式のスナイドル銃を装備し、弾薬も潤沢に配られた。この弾は薬きょうに弾頭がついているもので、発射するのに手間がかからない。
 これに対して薩摩軍は鉛玉と薬包を別に込める旧式のものである。その上に使ってしまえば補給の当てはなかった。
 この近代と前近代の装備の差、そして兵站の有無は大きかった。あわせて政府は兵員を薩摩軍に倍する6万を投入するとともに、軍艦をも使っての艦砲射撃を実行した。
 いくら美丈夫な少年剣士が血刀で奮闘しても勝てる相手ではない。明治10年3月20日、田原坂は物量にものを言わせる政府軍に抜かれた。その後、薩摩軍は九州南部を転戦するも、兵はどんどんと倒れ、最終的に、鹿児島にもどったのは300ほどだったという。西郷はそのわずかな兵とともに城山にこもった。包囲する政府軍は5万である。衆寡敵せず、西郷たちはこの城山で最期を迎える。
 これにより、名実ともに侍は死に絶えて、新たな国民兵の時代の扉が開かれることになる。

 薩摩軍の中に村田新八という快男児がいる。坂の上の雲を目指して進んでいこうとするこの時代にあって、長州藩土佐藩の人材は、維新の回天でほぼ底をついていた。このために二流、三流の人物の台頭を許すことになるのだが、鹿児島には、まだ人材が残っていた。この村田新八もそうである。あるいは大久保利通に匹敵するほどの政治家、行政家に成りえたかもしれない。惜しむらくは、人柄が良すぎた。大久保とともに東京にあって国家建設にまい進するという選択肢もあったのだが、西郷への情義を優先して、ともに戦い、ともに城山にこもっている。
 彼は、城山の最前線にあって、山をとりまいている政府軍の長大な柵を見て回った。そして「これでだいじょうぶだ」と喜んだという。
「他日、欧米列強と戦わなければならないときが来たとき、なによりの稽古になる」
 と言った。
 これまで政府軍は弱いとされてきた。それが、薩摩軍を相手にこれだけの戦いを展開している。敵軍ながら新八はそれが嬉しいのである。自分は間もなくここで死ぬであろう。しかし、政府軍にはその屍を越えて強くなってほしいと願っているのである。日本という産声を上げたばかりの近代国家を、この軍であれば守ってくれるだろうと敵の陣容を眺めて安堵している。なんとも妙な男だが、なんとビジョンの大きい男であることか。

 さて、この男には二人の息子がいる。長男を岩熊(いわくま)、次男を二蔵(にぞう)といい、二人とも、鹿児島の出陣から新八とともに薩摩軍に馳せ参じている。ただ、二人とも少年に過ぎないので、所属した隊の長が哀れんで、戦闘要員としてではなく伝令として用いた。
 それを知った新八は、二人に「伝令などやめて、戦闘の指揮をとれ」と命じた。子供たちは、父の命に素直に従い、すぐさま戦闘に加わり、田原坂で奮戦し、その後、転戦した植木という在所の戦いで死ぬ。
 冒頭の「右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな美少年」とは、村田岩熊のことである。