なんとかしてくださいよ

 大正3年4月、時の大隈内閣で司法次官に抜擢された鈴木喜三郎邸で2人の男が顔を合わせている。
「目の前に座っているのは、得意満面な青年代議士だった。得意が顔中で躍っている。嬉しさが顔に収まりきらず、こぼれ落ちそうになっている。素直な性格なのだろう。そばにいるのが落選して気分の滅入っている同年輩者であることなど気にもしない、お坊ちゃんである」
 以上は、水木楊『誠心誠意、嘘をつく』(日本経済新聞社)から引いた。落選して気分の滅入っている男というのが、のちに自民党を生むことになる三木武吉で、三木の前に座っている素直な性格のお坊ちゃんが、後年、首相になる鳩山一郎だった。
 その後、東京市政をめぐって三木と鳩山は政敵となって闘うこともしばしばあったが、大正12年には、同じ自由主義政党人として手を携えることなる。
 ワシャは度々言っているが、この三木武吉という人物は度量の大きい、政治家らしい政治家だったと思っている。吉田茂というとんでもないワンマン政治家が君臨した時代に、吉田に拮抗する男として登場してくる。彼我のバランスをとるべく天が配剤したかのようなポジションが三木武吉であった。
 その三木が、鳩山を担いだ。一説には、三木が、鳩山の大らかな性格に撃たれ、将たる器を見たからだと言われているが、そうだろうか。血は争えないというではないか。なんと言っても鳩山一郎鳩山由紀夫の祖父である。東大卒、お坊ちゃま、空気が読めない、母親がなにかと下ごしらえをする、など類似点が多すぎる。
 大正13年にも三木と鳩山が手を結んだが、この裏には鳩山一郎の母の春子が三木に会って、
「一郎ちゃんを男にしてやってくださいね」
 と頼んだとか……。
 こういった事例を見ていくと、鳩山一郎の血統のよさは間違いのないところだが、はたして政治家としての力量はあったのだろうか。三木は、横柄で自信家の吉田茂を蛇蝎の如く嫌っていた。吉田の経歴、閨閥のよさなどに鼻持ちならないものを感じていたと思われる。自由党の志士の息子、横浜の貿易商の養子、東京帝大卒、外交官、枢密院顧問官の女婿という吉田に比べ、三木のほうは、四国高松の産、早稲田専門学校卒のしがない貧乏弁護士でしかなかった。吉田に対抗するにはそれなりに煌びやかな御輿を担がねばならない。それが鳩山一郎という軽い御輿だったのではないか。

 時は下り、平成の策士小沢一郎も軽くて見場のいい木偶(でく)を選んだのだが、これが傀儡師(くぐつし)の言うことをきかず独りで暴走し始めた。傀儡師は退場したにも関わらず、木偶はいまだに彷徨って余分なことばかりしている。
鳩山由紀夫南京虐殺を謝罪」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130119-00000006-maiall-cn
 いいかげんにしなはれ。これも三木はんが鳩山一郎を担いだ結果でっせ。三木はん、彼岸からなんとかしておくれやっしゃ。