市民参加の限界

 先日、ちょっとした関わりがあってとある公共団体主催の市民会議に顔を出した。そこでは市民代表といわれる人たちが上座にずらっと並び、下座に行政関係の職員が数人並ぶ。
 議題は、ある特定の案件の可否についてということで、その案件はワシャも知るところなのだが、まったく問題がなく順調でもあるため「さほど時間も掛かるまい」と高を括っていた。
 まず会議の事務局が開会を宣言し、会議の議長(もちろん市民)が冒頭のあいさつをする。
 その後、案件の担当課長による進捗状況の説明がなされた。これがざっと1時間。一人で1時間は長かろう。それに立ったままでの説明だ。市民代表は誰一人として「座ってください」と言わない。途中で上司らしき年配の職員が「座ったら」と突っついていたが、担当課長は座ることなく終始した。
 案件は複雑で多岐にわたっている。資料も多い。件の課長は、市民代表が飽きないように資料、パワーポイントなどをうまく回しながら説明している。資料の内容についても、極力、かいつまんで要点を解かりやすく話す。まぁ及第点といったところだろう。ワシャ的には1時間はさほど長く感じなかった。
 説明が終わり、議長が「質問はありませんか?」と居並ぶ市民代表に水を向ける。説明が的を射ていたものだったので、市民代表たちから手は挙がらない。
「これで散会だな」と思った瞬間、隅に座っていた60がらみの女性がおずおずと右手を差し出した。
 その女性は2点質問をしたのだが、本日の案件とはまったく関係ない市への要望のようなものだった。これは議長が毅然と裁かないと……。
 議長がその要望を受けてこう言った。
「事務局、このことについて回答を願います」
 おいおい、違うだろう。ここは、
「今回の案件とは違った内容ですので承るだけにしておきます」
 と、言わなくっちゃ。案件と関わりのないことを事務局に振ってはいけない。
 ならば、ここは事務局の仕切りの見せどころである。
「これは本日の案件とは違うお話ですので、担当課の方にこういったご要望があったということをお伝えさせていただきます」
 と、あさってな質問を交通整理するべきだろう。ところが事務局は、見当違いの質問にここぞとばかりに答えてしまった。
 そうなると、このやりとりを聞いて、他の市民代表は「なんでもいいんだ」ということになりますわな。案の定、堰を切ったようにとんでもない発言が会議場に飛び交い始める。もう当初の案件なんかそっちのけで、陳情合戦、苦情合戦、言いたい放題となってしまった。
 不満でもクレームでも、行政にたずさわるものならば、ありがたく拝聴するのが当たり前だのクラッカーであることは論をまたない。それはそれで現在の地方自治の風潮なので仕方ないだろう。
 でもね、小学校の学級委員会で「次の遠足の行き先について」という議題で「太郎ちゃんは教室の中で鼻くそをほじってました」とか「花子ちゃんはトイレの後で手を洗いませんでした」が、主要議題となっている。それでいいのかなぁ。

 もう一点、市民参加に疑義を感じる点がある。会議のメンバーに常連が多いということだ。グループや集団の代表という人も混在しているが、市民公募のメンバーも含めて、よく見る顔ぶればかりである。知人に確認したところ、市民参加が好きな人は5つも6つも審議会、協議会、懇話会、委員会などを掛け持ちしているという。これが本当に市民参加と言えるのだろうか。

 プラーヌンクスツェレという市民参加手法がある。平成22年6月27日の日記
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20100627
にも少し書いた。
 ここまですれば本当の市民参加ということになるのだろう。すでに東京圏の先進自治体ではプラーヌンクスツェレを実施しているところもある。これが絶対ということでないとは思うが、現在の「市民参加」というものがターニングポイントに差し掛かっているような気がするのはワシャだけだろうか。