集光の要

《天に意思がある。
 としか、この若者の場合、おもえない。
 天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。》
 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の最終章の一文である。255万2千字、400字詰め原稿用紙に換算すれば5630枚の長編だ。文庫にして全8巻、この長きにわたって坂本竜馬という若者の人生に寄り添い、この若者とともに一喜一憂してきたが、ラストのラストで呆気ないほど簡単に彼岸へと旅立っていく。この潔さが、この若者を幕末風雲の中でヒーローに仕立て上げた大きな要因だと思う。
 慶応三年霜月十五日、つまり145年前の今日、竜馬は京都河原町の醤油商近江屋の二階で刺客に襲われ、33歳の人生を閉じる。あるいは彼が生き永らえば、明治以降の日本の歴史が変わっていたかもしれぬ。少なくとも西郷隆盛大久保利通、あるいは岩倉具視ですら竜馬に一目も二目も譲らなければならなかっただろうし、伊藤博文山県有朋あたりでは、口もきけないほどの高邁な政治家になるはずだった。
 しかし、惜しまれるかな、薩長同盟をしかけ、維新の回天の立役者であるこの有能な若者を、天はさっさと召しかえしてしまう。
「道筋はついた。あとは愚かな者どもでも知恵を集めればなんとなるだろう」
 天はそう考えられたのかもしれない。

 時代はくだって昭和30年である。
 ワシャは三木武吉という政治家を尊敬している。現在の不甲斐ない政治家と比べれば大粒な好漢政治家と言っていい。この人物がなにを成したのかと言えば、昭和30年、つまり1955年に「保守合同」という手品のようなことをやり、いわゆる「55年体制」をつくり上げたのである。三木の存在なくして、戦後の自由民主党の躍進はなく、はたしてその後の長期の安定が続いたかどうか……。
 興味深いことは、この人物も「保守合同」を成し遂げると、時を経ずして彼岸へと旅立ってしまう。吉田茂鳩山一郎などが一目も二目も置かざるをえなかった希有の政治家は、死後になにも残さずに逝った。いや、厳密に言えば相当額の借金が残っていたというから、実に身綺麗な政治家であったと言うべきか。
 奇しくも三木が、対立する自由党民主党、日本の保守を結集させた新党結党大会は57年前の11月15日だった。

 ついに野田首相が解散を明言した。はてさて平成の政治家は、国を導くために光を集めることができるのかどうか。天の竜馬も、泉下の三木も、その行方を見ているに違いない。