7月1日に名古屋で開催されたトークイベントについて記した。その時、いろいろな話が出たのだが、評論家の呉智英さんがこんなことを言われた。
「お祭りが平穏無事に終わるようになったのは最近のことだ」
各地に祭は数々あれど、町内対抗の祭というのは、昔はかなり荒っぽかった。三河刈谷に万燈祭
http://www.katch.ne.jp/~mando/
がある。上記のウェブサイトを見ていただくと解かると思うが、骨組みを作って、そこに和紙を張り、色付けをして、中に灯りを点して、それを掲げて、町を練り歩くというもの。青森のねぶた祭の小型版と思えばいい。
この万燈だが、かつてはあちこちの町内ともめて、接触・衝突をして、帰って来ると竿だけになっているということもあったらしい。
知多の半田に亀崎潮干祭という山車祭がある。これを取材に行ったことがあるが、町内ごとに保存してある山車を若衆が引っ張りながら町々を駆け回る。そもそも祭である。酒も入っている上に、巨大な山車を渾身の力で引いている。アドレナリンも出っ放しだろう。この際に、行く手を阻んだとか、接触をしたとかで、あちこちで喧嘩が起きる。
ワシャが路肩で見ていた時も、罵り合いは毎度、何件かは取っ組み合いの喧嘩があった。それをワクワクしながら眺めていたものである。
山車の話に少し触れたい。
東海地方の山車は二層構造(前山と高段)のものが主流で、名古屋、津島、半田、知立などはこの類である。犬山の山車だけが三層構造(前山の下の胴山が伸びて一層を成す)で、呼び方も山車と呼ばずに車山と言う。
ワシャはあちこちの山車を見てきたが、好きなのは知立型といわれるものである。二層構造は他と同じなのだが、18世紀以降に主流のものとは別進化を遂げた。これは、三河の仏壇文化に影響されたものと思っているが、なにしろ金箔や漆が多用され、豪華な山車となっている。
http://japanfestival.web.fc2.com/01-dashi-festival/a-k/chiryu/ichiran/ichiran.html
かつてはこれらの豪華な山車も喧嘩に明け暮れていたんでしょうね。
こじつけだが、保守という大山車を死ぬまで引いた漢(おとこ)がいた。ワシャが尊敬する政治家三木武吉である。彼は昭和31年7月4日、上目黒の引っ越したばかりの屋敷で息を引き取った。享年71歳、生まれながらの喧嘩師で、後半生は吉田茂との大喧嘩をして、見事に勝っている。
三木武吉の墓は谷中霊園にある。作家の水木楊が「ほとんど路傍の石に近い」と言った墓だ。確かにどこにも三木武吉の名はなく、墓も四角い立方体ではない。石の原型そのままだが、その形を活かしたなかなか趣のある墓だと思う。
谷中には三木が御輿として担いだ鳩山一郎の墓もある。敷地は三木の数十倍、一族の墓も居並ぶ立派なものである。でも、三木さんの墓には手を合わせるが、鳩山さんのほうは素通りする。それは出来の悪い子孫のせいかもしれないけど。
三木は弟にこう言っている。
「子孫がずぼらだと、墓ばかり立派になっても困るだろう。第一、みっともない。おれもそう思ったから、小さな墓にした」
生涯をまつりごとの世界で喧嘩に明け暮れた喧嘩師は死ぬまで……死んでからも颯爽としている。