新美南吉最後の年

 新美南吉は昭和18年の3月22日に身罷った。喉頭結核の悪化がその因となった。17年の末、病状は思わしくなく、女学校をしばしば休んだことが記録されている。年があらたまって病はさらに重篤になり、2月10日には、ついに女学校への復帰を断念し退職を余儀なくされる。南吉の人生でもっとも充実し楽しかった4年8ヶ月にピリオドが打たれたわけだ。
 
 南吉の最後の年、18年を年始から見てみよう。南吉の日記は17年の9月17日で途絶えている。以降の記録は、原稿の隅に書かれたメモであったり、関係者の証言に依ったりして採集されたものである。
 18年1月8日に脱稿した「狐」の自筆原稿の題名の下に「一八・一・八午后五時半書きあぐ。店の火鉢のわきで。のどがいたい」とある。

 南吉は、渡辺畳店の店先の火鉢にすがるようにして「狐」を脱稿した。これは「ごんぎつね」「手袋を買いに」とともに、キツネ三部作と呼ばれる南吉の代表作となっている。その後、9日には「小さい太郎の悲しみ」、16日には「疣(いぼ)」を書き上げている。そして18日には「天狗」を書き始めた。その間にも「英米文学講座―現代アメリカ文学論」など何冊もの本を読了し、19日には、マリアット『ピーター・シムプル』(岩波文庫)を読み終えている。
 読書というものはけっこうな体力を消耗する。しかし、南吉は病床にありながらも習慣となっている本を読み続けた。その上の創作活動である。創作活動における体力・気力の損耗は読書の比ではない。命のろうそくを削りながら南吉は原稿用紙に取り付いていた。ある意味で鬼気迫る様子だったと思う。ただ、身体だけをとらえればそうなのだろうが、精神ということに限れば、逆に研ぎ澄まされ闇を射す一条の巧妙のように輝いていたのではないか。
 南吉は110の童話、60の小説、600の詩、300の短歌、400の俳句を残している。わずか29年の生涯に換算すれば、かなり多作な作家だった。その中でも傑作といわれる「狐」を、死の恐怖と戦いながら生みだした。

 その、命の対価として書き上げた「狐」のことである。物語をご覧になりたい方はこちらを。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/632_14896.html
 思い切りかいつまむとこんな話である。

 夜、子供たちがお祭りに行く。その中で一番小さい文六ちゃんが下駄を買う。そこにおせっかいな婆が出てきて「晩げに新しい下駄をおろすと狐がつくげな」と言わなくてもいいことを口にする。その言葉に子供たちが囚われてしまう。帰りの暗い道に文六ちゃんが「コン」とセキをする。それが狐の鳴き声のように聞こえたのだ。そのために、いつもは小さい文六ちゃんを家まで送ってくれる子供たちがその夜は途中で知らん顔をして帰ってしまった。
 家に帰ってお母さんと床についた文六ちゃんは「夜、下駄をおろすと狐につかれるのか」ときく。何があったか察したお母さんは「そんなことは嘘だ」と答える。文六ちゃんは「きっとだね」と念を押しながらも「でももしボクが本当に狐になったらどうする?」と尋ねる。お母さんは「だったら父さんも母さんも狐になるよ」と応じる。
「もし猟師が撃ちにきたらどうするの?」
「母ちゃんはびっこをひいてゆっくりと行きましょう」
 文六ちゃんは、お母さんが自分を助けるために自分を犠牲にするということを悟って泣き出すのだった。お母さんも、寝巻きの袖で目のふちをぬぐったのだった。

 というような話。
 この「狐」も、他の三部作もどれもが、母にまつわる話になっている。「ごんぎつね」は南吉の境遇と同様の母のいない子狐ごんの話。「手袋を買いに」は子狐と母狐との愛らしい物語。「狐」はキツネという動物こそ出てこないが、狐つきをテーマに母と息子の温かい心の交流を描く。
 南吉は幼いころに母親を失った。その母への思慕が、キツネ三部作を書かせた原動力になっている。

 それにしても、南吉の筆力はいかばかりであろうか。もう体はボロボロで、喉の痛みは尋常ではあるまい。意識を集中させるだけでも体力を消耗するような状態だったろう。最悪の状況下でこれだけのクオリティの作品を仕上げるとは……。本文を読んでいただけるとご理解いただけると思うが、文章も透き通るように清明だ。
 新美南吉の作品のいくつかを読み直してみて、あらためですごい作家であることを認識している。
 ある研究者によれば、南吉は「子供の孤独」を書いた作家だという。実の母親を幼いころに亡くし、養子に出され、虚弱なために子供たちの中でも文六ちゃんのように孤立していたのだろう。
 南吉作品の多くに通奏低音のように、孤独感、寂寥感のようなものが流れているのは、そういった経緯が関わっているのだと思う。
 ううむ、新美南吉、想像以上に深い。