たきび忌

 巽聖歌という児童文学者がいる。有名なのは童謡の「たきび」である。
「かきねの かきねの まがりかど〜 たきびだ たきびだ おちばたき〜」
 有名ですよね。
 もう今じゃ垣根の曲がり角で焚き火をしていると、近所から苦情は言われるし、下手をすると警察から往来妨害とか言われかねない。風情がなくなったというか、世知辛くなったというか……。
 そんなことはどうでもいい。巽聖歌のことである。なぜことさらそんな人物のことを取り上げるかというと、実は巽聖歌、童話作家新美南吉の恩人なんですね。
 巽聖歌という人物がいなければ、新美南吉は世に出ていなかった。北原白秋門下で南吉の兄貴分的な巽が、南吉の死後、関係各所を走り回って「全集」や「選集」の発刊にこぎつけている。こういったことがきっかけとなって、南吉の作品が国語教科書に取り上げられた。おそらくその採録数、採録期間は、他の作家の作品に大きく水をあけ群をを抜いている。今や、50代以降の「ごんぎつね」を読んだことのない日本人はいない、といっても過言ではあるまい。

 巽は彼の著書『新美南吉の手紙とその生涯』(英宝選書)のまえがきにこんなことを書いている。
《南吉は、この昭和十二年が、生涯での苦闘の時代だったようだ。病気ばかりではなく、病気ゆえに書きたいものも書けない悩み、中三ぐらいから愛情をもちつづけたきた人の結婚生活を垣間みる苦しみ、失業苦、それによって起こる家庭内のごたごた、病いをおして小学校の代用教員になったが、それも七月までだった。そういうときに、日華事変に入っていった。そのころの日記を見ると、絶望と虚無にうちひしがれた彼の生活が、如実にえがかれている。》
 この後段にも、母との死別、継母との確執、どなることばかりの畳職人の父、貧困、病気、失恋、失業……南吉の前半生が苦しいものであったということを巽は繰り返して言う。
 そういった境遇を一転させたのが、安城高等女学校への就職だった。両親との別居、病は気からというけれど、この時期の南吉の体調はいい。失った恋はその欠落した部分を埋め合わせればいい。若き教師にまとわりつくように慕ってくれる女学生たちは、南吉の心を充分に癒した。そして毎月支給される手当は、南吉を貧困から救った。
 なんども言っているが、南吉がもっとも充実していた時代は晩年の数年間だった。そこに光芒があるからこそ、南吉は後世に名を残すことが出来たと思っている。 もちろん巽聖歌という頼もしい友人がいたから、ということも忘れてはいけない。

 今日は巽の命日である。