直柔。「なおなり」と読む。坂本竜馬の名である。
坂本竜馬は20代の前半、江戸に遊学した。24歳の時に高知に戻り、武市瑞山率いる土佐勤皇党に加盟したりしてごそごそしている。28歳のときに脱藩し、日本全国をうろつき、最終的に江戸の勝海舟のところにもぐりこんだ。この後、勝の進める「神戸海軍操練所」の設立に奔走し、そこの塾頭になったりしている。
31歳で亀山社中を設立し、32歳で薩長連合を成立させ、33歳で「船中八策」を草し、その年の11月15日、京都河原町の醤油屋の二階座敷で見廻組佐々木唯三郎らの襲撃を受けてあっけなく死亡。さっさと彼岸に帰って逝った。
このあたりを司馬遼太郎はこう書いている。
《「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」
それが、竜馬の最後のことばになった。言いおわると最後の息をつき、倒れ、なんの未練もなげに、その霊は天にむかって駈けのぼった。》
竜馬はその短い人生の中で「維新の回天」に参画し、歴史の扉をその手で押し開けるという偉業を成し遂げた。竜馬は、死にゆく意識の中で「やることはやった」と思い、満足であったに違いない。
今、就職難で路頭に迷っている若者たちがあまた存在している。強烈な使命を天から与えられた竜馬のようにはいかないとしても、せめて、なにかしら社会の役に立つための有用な仕事を与えてやれないものだろうか。彼らに竜馬の万分の一でもいい、生甲斐を与えることは出来ないものか。
直柔忌にそんなことを思っている。