道を譲る

《天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。》
 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の最後のページにある一節である。このフレーズによって、司馬が描く竜馬は大ブレークすることになる。己がするべき仕事が終われば、さっさと身を引いて後進に道を譲る。偶然のなせることだったわけだが、この退場の仕方は格好良すぎる。

 格好良くもなく退場したオッサンが、昨日、近所の自転車道を所用で走っていた。自転車3台が横並びで走るのがいっぱいいっぱい。そんなさして広くもない自転車道なんですね。
 でもね、地元の人たちが日常に使う道でもあるので、交通量はけっこう多い。昨日も買い物帰りのオバアサンや息子とサイクリングをしているお父さんなどと前後しながら走っていた。
 そしたらね、対向から高校生くらいの若い男女の集団がこっちに自転車でやってくるのが確認できた。8台くらいが、かたまって走っている。対向車が来たら2列になればいいんですよ。ところがクソガキらはそうしなかった。当然ながら、先を行くオバアサンは、道を外れで脇の芝生の中で自転車を降りざるをえない。クソガキどもは、その人に礼を言うわけでもなく、当然のような顔をしてオバアサンの脇を雑談をしながら通り過ぎていく。
 次は親子連れの自転車とのすれ違いだった。この時、父親の先を走る子供の自転車が、クソガキ集団の先頭を行く前かごにバスケットボールを入れた少年と軽く接触をした。子供はよろよろとよろめいて、やはり芝生の中に突っ込んで、かろうじて停まった。父親も子供に駆け寄るかたちで道を空ける格好になった。その時にバスケットボールの少年がサイクリングの子供になにか喚いた。
「★◇@×#&AZ■◎●×!」
 日本人じゃなかった。そして、その言葉に集団がドッと沸いた。
 次がワシャだった。「傍若無人な行動」「若造ども」「日本人ではない」というのが、頭の中でぐるぐると巡って「チーン」と結論が出た。道を譲るものか。ここは日本でワシャの町なのだ。
 ワシャはあえて道の真ん中を走行して、そのクソガキ外人集団の中央を突破しようと決心していた。しかし、敵もさるもの引掻くもの、団子になった自転車は子供を押し出した勢いそのままにこっちに向かってくる。これでは確実に正面衝突をしてしまう。仕方がない。奥の手を使うか。
「邪魔じゃああああ!」
 ワルシャワ波動砲である。ワシャの声はともかくでかい。これが、正面のバスケットボールニイチャンを直撃した。彼はボールを落っことしそうになりながら、脇の仲間にぶつかりながら、ワシャとの正面衝突を回避した。あとはモーゼの葦の海のごと、集団は分かれて、ワシャはその中央を行くのであった。

 なにを言いたいかというと、「移民」は確実に地域社会の中に浸透しつつあり、とくに自動車産業で労働力の必要な西三河には、大量の移民がすでに入り込んでいるのである。このままなし崩しに開放していくと、いずれワシャはその外人キッズたちにボコボコにボコられる日が来るだろうということ。
 それでなくとも日本人は控え目で奥ゆかしい。普通の人は波動砲を持っていないしね。ということで、ワシャは「移民法」に反対なのである。