家康創業期最大の危機

徳川実紀』から少し直しながら引く。
「このほど小坂井、牛窪あたりにつくった新たな砦に兵糧米を備蓄するのに、御家人らが佐々木上宮寺の籾を取り上げた」
 これが永禄6年(1563)9月に発生した「三河一向一揆」の発端だった。諸説はあるが、東の今川に備えるために、東三河の前線基地に食料を送らなければならない。その兵糧米の入手に窮した御家人どもが、不入の権をもつ一向宗の寺領に手をつけ、それに反発して一向門徒が蜂起したというものである。
 家康の悲劇は、配下の松平一党から一向門徒側に走るものが多く出たことだった。
「一向専修の門徒ら俄に放棄することあり。この時に譜代の御家人らこれに与するものがたくさん出た。このために国中が騒擾(そうじょう)となった」
 いわゆる宗教戦争である。現世の主君と来世の阿弥陀如来の戦いだ。まさに三河をまっぷたつに割った身内同士の血で血を洗う抗争となった。
 もちろんこの一揆の背後には今川家の素破(すっぱ:スパイのこと)の影がちらつく。三河松平領をかく乱し弱体化せしめ、その隙をついて侵略を謀ろうとするものである。要するに支那中国が沖縄でやっている後方攪乱戦と同様のものと思えばいい。

 この「三河一向一揆」がもっとも燃え盛ったのが、岡崎城の南部から西部の2里(8km)の範囲である。まさにお膝元と言っていいだろう。
 三河三箇寺と呼ばれる寺院があった。佐々木上宮寺、針崎勝鬘(しょうまん)寺、野寺本證寺である。この寺院群は、すでに寺内不入などの特権を獲得していたために地域的流通拠点として発達をしており、寺の周辺に門前町が発達していた。その上、寺自体に軍事施設的な整備が図られている。これを城郭伽藍(じょうかくがらん)と言い、当時の小大名では、なかなか対抗できないほどの勢力を張っていた。まさにこの時期の家康は典型的な小大名で、政教分離で統治している間はよかったが、政教の間がぎくしゃくし始めるととたんに窮地に追い込まれた。
 本證寺では、家康を悩ませた軍事施設の遺構が残されており、往時のすがたを垣間見ることができる。

 さて、物語を進めよう。まずは、事件の発端となった佐々木上宮寺である。この寺は岡崎城から直線距離で3500mほど、つまり1里に足らないほどの目と鼻の先である。おそらく岡崎城からは西の野に焚かれたかがり火を見ることができただろう。
 その火を見つめる家康方の御家人たちも宗派は一向宗である。一揆側と同様に阿弥陀如来を信仰している。しかし家康に与した瞬間に「法敵」となり、死後、阿弥陀如来の救済は受けられないことになる。現世の主君に付くか、来世の安寧を守るか、これは譜代の家来たちにとっても大変な選択だった。
 このあたりの家康家中の苦悩は、宮城谷昌光『新三河物語』(新潮社)に詳しい。お暇なら読んでみてくだされ。
 本題にもどる。
 永禄7年1月のことである。戦闘は散発的なものが多く、膠着状態が続いていた。ここで攻勢に転じようと一揆方が岡崎の南の野に集結し、家康方の前線基地である和田砦を攻めたのである。これが激戦となった。ここで家康自身も九死に一生を得るという場面もあり、あやうく徳川三百年が夢のまた夢になるところだった。こういうエピソードを聞くと、ホントに人生って運だなぁと思う。
 ここで辛勝した家康は、一揆方を後方支援していた吉良義昭、荒川義広、酒井忠尚などの土豪を攻めて、三河からの追い出しに成功する。重臣たちが一向宗から浄土宗に転向してまで主君を支えた結果、家康は創業期最大の危機を脱することができたのである。
 旧暦の9月といえばちょうど今時分ですぞ。三河で戦国の風に吹かれるのも一興。ムフフフフ。