雪化粧をした鶴ヶ城はまことに美しい。神々しいほどである。それは、薩摩に騙され、徳川慶喜に裏切られても、なお武士道という規範を貫いた会津藩の象徴のようにも見える。
幕末から明治維新にかけての動向で「会津藩には一片の非もない」というのは言い過ぎだろうか。
幕末、帝のおわす京の治安は最悪だった。徳川幕府の威信はどんぞこで、このために暗殺やテロが横行していた。もう幕府直轄の京都所司代ではどうにもならない状態と言っていい。
このときに白羽の矢が立ったのが、東北の会津藩だった。藩祖以来「武」をもってならす藩であり、徳川宗家の御家門でもある。
「京都の治安を維持せよ」という将軍の命が下り、忠勤第一の会津藩でも、その仕事の苛酷さゆえに三度断ったという。しかし、幕命断われず、京へ行かねばならないことが決まった時、会津の君臣は、鶴ヶ城大広間でともに泣いたという。
松平容保は千人の会津藩士を率いて京に上る。宿陣は、東山大文字西麓の黒谷金戒光明寺である。会津上洛を京の人々は大歓迎をする。
「会津肥後さま、京都守護職つとめます、内裏繁昌で公家安堵、世の中ようがんしょ」と囃し立てた。
もちろん天子においても同様である。膝元の治安を脅かす不逞の輩の駆逐を期待した。松平容保はその期待に大いに応え、実際に京は何年かぶりに平穏を取り戻す。これは28万石程度の中堅大名にとっては尋常な出費ではない。なにしろ1000人の藩士とその下に連なる新選組の手当まで必要なのである。
公武合体をめざした孝明天皇は実直な容保に感謝し重く用いた。文久3年には容保に感謝状を下賜しているほどだ。
孝明天皇の御意にも適い、京都の治安を守った会津藩がなぜに朝敵となり、明治維新の生贄にされなければならなかったのか。この裏には、複雑な政治が絡んでくる。大黒幕は旧500円札の岩倉具視卿だと思っているが、彼と大久保利通あたりが仕掛けた罠にまんまと会津がはまってしまったというところが現実なんだろう。
正義は会津にある。しかし、残念ながら勝者は会津ではなかった。でもね、その潔さが1世紀半を経ても、会津の美しさを醸し出しているとすれば、歴史的に見れば会津の勝利だったと思える。
雪の鶴ヶ城は寒かった。城内を見学していて冷え切ってしまったので、早々に下城して、北出丸の東にあった「本丸茶屋」
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にしけ込みましたぞ。
ここで、名酒「名倉山」に燗をつけてもらい、名物焼だんごをアテにして雪見酒を決め込んだ。アルコールが少し回ってぼんやりした意識の中で観る純白の鶴ヶ城は潔癖だった。
(下にも「ある研究発表」という日記があります)