晩夏の座敷

 午前3時半ごろから激しい雷雨が始まった。季節の変わり目である。だんだん夏から秋に移っていくんだろう。
雷鼓(らいこ)鳴り 耳ふさぐ夕餉 闇の中」
 東京俳句倶楽部所属の小達雅子さんの句である。小達さん、俳号を「海童(カイドウ)」、芸名は夏目雅子という。
 残念ながら夏目雅子のファンは、54歳の夏目雅子の姿を見ることができなかった。生きていればいい女優になっていたことだろう。27年前の今日、日本映画は名花を失った。
 歳時記を繰っていたら、9月11日の項に、「海童忌」とあったので。

「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き頃わろき住居は、堪へがたき事なり」
徒然草』の一節である。家は夏本位に造るのがよいと言っている。その点、二川陣屋は、完璧に夏向きの仕様だった。なにしろ全ての間仕切りが取り払える。あるいは、襖を葦戸に替え夏座敷ににしておく。そうすると家の中を涼風が通っていくのである。
 ワシャは何軒も日本建築を見てきた。その中でも二川陣屋は「住んでもいいな」と思えた一棟である。だが250坪もある大邸宅だ。これはちょいと身にそぐわない。甲羅に似せて穴は掘らないとね。
 そこで目をつけたのが、明治村にある旧幸田露伴邸の「蝸牛庵」である。明治村には季節のいい時分に時々出かけるのだが、なんといっても「蝸牛庵」がいい。
http://www.sharaku.nuac.nagoya-u.ac.jp/meijimura/pdf/meiji_26.pdf#search
 とくに北東につきだした十畳の和室が居心地が良さそうだ。無論、その部屋が露伴の書斎なのだが、風通しのいい、夏に涼しい建物になっている。
 思い起こせば、ワシャがガキの頃に住んでいた駅前の家も、夏になれば表通りから裏庭まで素通しだった。だから風はよく通ったなぁ。少し郊外の今の地所に越してきてからは、細かく間仕切りをした家になり、風はめっきり通らなくなった。
 そうそう、母親の実家が岐阜の山間にあったのだが、そこは風通しのいいところだった。矢作川の最上流部の集落で、隣の家まで何百メートルもあるようなところだった。大伯父は、「先祖は平家の落ち武者だった」と言っていたが、おそらく眉唾な話だ。それでも,ワシャが小学校に入る前だったと思う。日本刀を見せてもらったことがあったので、昔をたどれば地侍か何かではあったのだろう。
 その頃、昭和30年代、実家は茅葺だった。まず広い縁があり、その奥に四八畳と言う仏間を含め田の字に座敷が四つある。廊下をはさんで坊主部屋と居間があったので縁先から奥を見ると、はるか遠くに裏庭が見えたものだった。街場の子供にしてみれば、運動場のような広い座敷だった。標高も高かったし、東美濃の山々に囲まれていたせいもあり、座敷に寝転んで少年マガジンを読んでいると、心地よかったという記憶が残っている。
 夕刻になると蜩が鳴く。奥矢作の里は山がせまっているだけに日暮れは早い。奥の台所から夕餉の支度をする女たちの楽しげなやりとりが聴こえ、田舎味噌の匂いなどがただよってくる。北の座敷で本に夢中になっていると、いつの間にかすぐ近くまで夕闇が迫っている。
「暗いところで本を読んでいると目を悪くするわよ」
 と従姉にたしなめられ、しぶしぶ雑誌を閉じたものである。そんな時、遠雷が響く。
雷鼓鳴り 耳ふさぐ夕餉 闇の中」
 この句の雷は、耳をふさぐくらいだから近いのだろう。ワシャが田舎で聴いた雷鳴は遠かった。
 そしてワシャのイメージの中では、従姉は、夏目雅子なのである。そう勝手に思い込んで、楽しい思い出にしている(笑)。

 ちなみに午前6時20分現在、いまだに軽雷がドロドロと鳴っている。