オリンピックは必要か?

 支那中国が国策として必死に金メダルを集めている。
 支那全土から運動神経のいい子供をかっさらってきて、たこ部屋のようなところに押し込んで、朝から晩までスポーツ漬け。脱落するものはどんどんと切り捨てて、人格の形成などは二の次、三の次。その激烈で非人道的な修練の先にオリンピックのメダルがぶら下がっているのだ。そういうことを強権に基づいて実施できる独裁国家と、普通の自由な国が同じ土俵で戦えるわけがない。だから支那選手が活躍するのを見ると、運動する機械のような選手が哀れだし、白けてしまう。

 現在の彼の国のスポーツ事情を聴いていると、村上もとか『龍』(小学館)のあるエピソードを思い出した。このコミックは昭和前期の日本・中国を舞台にした大河ドラマである。その17巻に「切れる剣」という話がある。重要な脇役である京劇俳優の鳳花(フォンホア)の生い立ちに関する章だ。鳳花は11歳で高忠達科班(カオゾンダコオパン)に入る。京劇の俳優を養成する虎の穴である。ここで地獄のような特訓を受け、徹底的に鍛え抜かれ、マシーンのような京劇俳優に育て上げられるというものだった。
 支那中国の現在のスポーツ事情を聴くにつけ、昭和初期にあった子供の漬け樽のような養成機関の中から一握りのエキスだけを拾い上げてくるような構造は、いまだに変わっていないんだな、相変わらずなんだなと思う。

 人に勝つことに価値がある、人を踏みつけにして頂上を目指す、そんな偏頗な育て方をするので、勝つためには、規定になければ、どんなことをしてもいいという考え方が横行する。
http://www.jiji.com/jc/olympic?s=newslist&k=2012080101085&rel=y&g=spo
 しかし、予選リーグの順位で決勝トーナメントの組み合わせが決まる今の仕組みでは、金メダルをとるために姑息な選手はそういった手段に走らないとも限らない。ガラリと仕組みを替える必要があるだろう。
 今朝の新聞にいろいろな人からのコメントが載っていた。バドミントンの元代表陣内貴美子さんは「システムを見直せ」と言う。大学教授は「無気力試合はスポーツの価値を下げる」と発言。
 そんな中で元サッカー選手の釜本邦茂氏は「次のゲームにつながる戦略。悪いことではない」と容認する姿勢を見せた。
 おおお、さすが釜本だ。ワシャは一度だけ釜本氏と接触をしたことがあるが、実に不遜で横柄な男だった。スポーツを極めるとここまで性格が歪むのか……と呆れたことを思い出した。

 アスリートたちが国の名誉をかけて闘うのは、それはそれでいい。しかし、わざと試合に負けるという策を弄してまで、金メダルを獲得する意味があるのだろうか。全力を尽くした結果でなければ、誰も感動しないし、そんなものそもそもスポーツではない。各国政府やオリンピック関係者の思惑が多すぎて、大会そのものが歪になっている。そろそろ五輪の岐路だと思う。