ジョン・カーター

 今上映中のディズニー映画のタイトルである。題材は、アメリカのSF作家、エドガー・ライス・バローズ出世作「火星の月の下で」を原作につかっている。その後、題名が「火星のプリンセス」にかわった。

 ワシャはこの本に小学校5年のときにであっている。行きつけの本屋で、文庫の棚を物色していて見つけた。創元推理文庫で、表紙にはヒロインのデジャー・ソリスという火星のお姫様が、武部本一郎さんの筆で描かれている。これがまた美しい。若き日の吉永小百合沢口靖子を足して2で割ったような面差しに、ほしのあきのボディをくっつけたような女性がシルクのケープのようなもの一枚でその身を包んでいる。嫋やかな肩から豊かな胸元までと、左足の太股から下が艶めかしく露出している。いやー、小5の純真な少年には刺激が強過ぎましたぞ。
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 このお方が、デジャー・ソリス様だす。
 このプリンセスの危機を、地球から火星にワープしたジョン・カーターが救いだし、第1巻の巻末で二人はめでたく結婚するのでした……という話が映画化されたのだ。

 E・R・バローズ作品の大ファンであるワルシャワは、早速、鑑賞にでかけた。
 E・R・バローズ原作の映画では、やはり『ターザン』である。アフリカのジャングルで孤児となったターザンが猿に育てられ成人し、やがて密林の王者として悪い奴らと対決するというもので、これは大ヒットを飛ばした。
 舞台がアフリカだけに、アフリカに行けば舞台装置がそのままあるわけで、映像化が比較的楽だったのだろう。1911年には『ターザン』が映画化になっている。これに対して、『火星シリーズ』は舞台が火星であり、登場する腕が4本ある緑色人や、足が8本もあるソート(馬)など、デジタル技術の進化を待たなければ映像化できないものばかりだった。そしてデジタル技術がある一定レベルにまで達した時期には、『火星シリーズ』の物語、設定、荒唐無稽さなどが他の作品で使い古されて、原点であるにも関わらず映像化されなかった。
 それがようよう日の目をみたわけである。

 ざっとあらすじを書く。まずは前置き。
 E・R・バローズは、大伯父のジョン・カーターの遺言により、大伯父の埋葬と遺産を管理することになる。託された資産の中にジョン・カーターの手記があり、それを基にしてバローズが叔父の冒険譚を発表していくというもの。
 さて、本編である。ジョン・カーターは、元南軍騎兵大尉で落ちぶれている。このために一攫千金を夢見て金鉱を探している。そんな夜、彼はアパッチ族に襲われ、アリゾナの洞窟で幽体離脱し、火星に移動することになる。
 火星(バルスーム)世界は地球よりも2〜300年ほど進化した科学を持っているが、風俗や文化は古代ローマ帝国のような状態である。ちょうど、ジョン・カーターが火星に行ったころは、火星の戦国時代であり、それぞれの部族が群雄割拠している。そこに紛れ込んで、地球人が大活躍して、火星の大元帥として火星世界を統一していく、というもの。赤色人、緑色人、黒色人、白色人、黄色人、それに怪物たちが入り混じっての一大スペースオペラが火星せましと展開される。

 映画は全11作の中の第1話を使っている。
 火星に到着したジョン・カーターは、緑色人のサーク族に捕らえられる。ところが、引力の違いで驚異的な身体能力となったため、火星最強の戦士である緑色人に勝ちをおさめサーク族の中で一定の地位をつかむ。そこでタルス・タルカスという終生の親友を得る。
 そのころ、地球人型生命体の赤色人の王国、ヘリウムとゾダンガが雌雄を決すべく戦いの火ぶたを切っていた。そんなある日、カーターは地球人そっくりの人間に遭遇する。それは科学調査の途上、サークの捕虜となった、ヘリウムのプリンセスにして絶世の美女、デジャー・ソリスだった。
 ジョン・カーターの戦いの日々と、デジャー・ソリスとのロマンスの悲喜こもごもを描きながら、大団円にむけて物語は進んでいく。ヘリウムは、ジョン・カーター率いるサーク族の支援をうけ、宿敵のゾダンガに勝利をおさめる。
 ジョン・カーターとデジャー・ソリスは結ばれて、めでたしめでたしとなるわけだが、第1巻の最後に再び大問題が生じる。火星の空気製造工場が停止したのである。大気が無くなれば、火星の生命体は死滅する。ジョン・カーターは大気が薄くなる中、火星世界を救うために空気製造工場にむかい、大気を取り戻すための技師を工場に送り込んで、そこで力尽き意識を失うのだった。

 目覚めれば、そこは地球最後の場所だったアリゾナの洞窟だった。地球へ戻ってしまったのである。その後、永い歳月が流れた。彼は発見した金鉱で裕福に暮らしていたが、心はデジャー・ソリスの許にあり、火星への思慕はつのるばかりである。
 そして、2度目の火星への旅が迫りつつあることを予感させながら、第1巻は終わる。

 映画もおおむねこのストーリーを踏まえてはいる。緑色人などは、少年の描いていたものとそん色なく、少し痩身ではあるが、獰猛で好戦的な戦士集団となっている。惜しむらくは、デジャー・ソリスである。デジャー・ソリスが逞しすぎるのである。腕も太く、色浅黒く、美人には違いないが、アマゾネスの大柄肉食系美女といったところなのである。
「オーイエッオーイエッカマンカマ〜ン」
 とてもじゃないが可憐なプリンセスといった風情はない。
 E・R・バローズの描くヒロインは一部の例外をのぞき、気品に満ち、美しく、貞淑で、受動的である。これがE・R・バローズが20世紀の初頭に理想とした女性像であり、その中でもトップレディであるデジャー・ソリスは、匂い立つような高雅なプリンセスであらねばならない。
そのプリンセスが、戦士の格好をして、太い腕に体毛をたなびかせゾダンガ兵と切り結ぶのである。これはいただけない。リン・コリンズ
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/typs/id754159/tph/dspl/b2/
では、ガタイがよすぎるのである。もっと、華奢な女優はいなかったのだろうか。
 そして、原作にはない「メダリオン」という地球、火星間の瞬間移動ができる不思議なメダル。ディズニー映画だから仕方がないが、これが物語からリアリティを奪っている。原作に忠実に描いても、よかったのではないかと思う。