三河一向一揆

 昨日もいい日和だった。三河の天は快晴である。それに誘われたわけでもないのだが、ワシャはまた岡崎方面に車を走らせた。
 ここ2年ほど、まるまる2日間、フリーに時間が使えるなどということはなかったが、たまたま、この土、日曜にぽっかりと空いた。まとまった時間ができれば、あちこち飛び回りたくなってしまう。この2日は「三河一向一揆」をテーマにして家康の故郷をうろうろしたのである。

 まず、「三河一向一揆」について触れておく。
 この事件は、永禄6年(1563)9月から翌7年にかけて、三河国西部で徳川家康がまきこまれた浄土真宗系の一揆のことである。当時、三河真宗門徒の多い真宗王国を形成していた。当時、その中枢を成すのが、岡崎の針崎勝鬘寺(しょうまんじ)、同じく佐々木上宮寺(じょうぐうじ)、そして城郭伽藍を持つ野寺本證寺(ほんしょうじ)の三河三箇寺であった。
そういった宗教色の濃い土地柄で、家康は自らの武士団を練り上げていかなければならず、その過程での内紛と言っていい。ううむ、内紛などという生易しいものではないなぁ。家康を支える三河武士団が真っ二つに分かれでの内戦状態だったわけで、むろん、この状態を北の武田が見過ごすはずがなく、武田の間諜が三河に入り込んで、反徳川工作に奔走していただろうから、三河徳川崩壊の危機と言っても過言ではあるまい。

 さて発端である。これには諸説がある。大久保彦左衛門の『三河物語』では、本證寺の寺領に咎人が逃げ込み、これを追ってきた家康の兵が寺領において捕縛した事件を挙げている。いわゆる「不入権」を侵害したので教団が怒ったというものである。他にも、上宮寺から対今川戦の兵糧を徴発したことから始まったとする説もある。これも「不入権」に関わる問題であり、領主といえども寺領を侵すことは許されなかったのである。あるいは、家康が領土を蚕食する真宗系寺院を根絶やしにするために、あえて仕掛けたのかもしれない。
 どちらにしても、徳川家創業期の一大苦戦であったことは否めないだろう。

 陽気に誘われて、その三箇寺を久しぶりに巡ってきたというわけなのである。たまには、戦国の匂いのようなものを嗅いでおかないと、歴史観が鈍るというか、イメージが枯渇するといけないので、刺激を受けに行ってきたようなわけですわ。

 針崎勝鬘寺は岡崎駅の南にある。住宅地の中の県道沿いに張り付くようにあるんだけど、ロケーションとしてはあまりよくない。むしろ、本證寺、上宮寺のほうが農村集落の中に佇んでいて、450年前に想いを馳せるのには好都合だ。
 境内は桜の花が満開だった。その桜越しに、享保19年(1734)に再建された本堂が見える。翼を広げたような、重量感ある本瓦葺の屋根は見事である。惜しまれるのは、境内地の一部を保育園にしてしまったことである。三河三箇寺が現世的な営利を追求してはいけない。
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Shomanji.html

 佐々木上宮寺は、岡崎城の西方一里(4km)にある。北に石工団地があるが、寺の周囲は農村と言っていい。寺の周辺はいい雰囲気なのだが、残念なことに古刹上宮寺は昭和63年に焼け落ちてしまった。大伽藍は見る影もなく、現在は、コンクリート製の本堂
http://www.sukima.com/26_meisou02_02/32jouguuji.html
に代わってしまった。歴史に重きを置くワルシャワにとってこれはいただけない。大きな費用がかかるとは思うが、木造で再建して欲しかった。

 その点で、野寺本證寺は永禄の頃の面影を強く残している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%AD%89%E5%AF%BA_(%E5%AE%89%E5%9F%8E%E5%B8%82)
 本堂北側には、堀や土塁がそのまま残っており、中世城郭伽藍の遺構としてはかなり程度のいいほうだと思う。ここで、徳川の軍勢と教団の信徒がどのように戦ったのだろう。今は草生して、夢の跡になっている。
 宮城谷昌光さんが、本證寺のことを書いている。
本證寺はなるほど寺にはちがいないが、本證寺城とよんでよいほど城郭としての機能を備えていた。それがいまだに比較的良い状態で残存していることで、城郭寺院の最良の例が、ここなのである。その点では、日本唯一の寺といってもさしつかえあるまい。》

 あ、今思った。秋の城跡巡りは、本證寺にしようかなぁ。