今年は聖徳太子から始めたい。
愛知県岡崎市に太子山上宮寺(たいしさんじょうぐうじ)がある。矢作川西岸の小さな農村集落の中にたたずむ。この寺は名前のとおり聖徳太子をお祀りしている。太子と言うのはそのまんまだし、上宮は太子の住んだ宮殿のこと。寺の開創は、浄土真宗の宗祖親鸞が三河で説法をした際に、聴聞した天台宗系の坊主が改宗したところから始まったといわれる。いずれにしても上宮寺が三河の太子信仰の拠点であることは間違いない。
上宮寺の寺宝に「聖徳太子絵伝」がある。この中に黒馬伝説が描かれている。これは、太子が諸国から良馬を貢上させた際に、数百頭の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜いて、これに試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子を連れて富士山を越えて信濃国まで至ったという伝説である。荒唐無稽な話なんですよ。でもね、太子信仰を民衆に広めるために、一向僧たちは絵軸を背負って村々を訪問し、おもしろおかしくスペクタクルな話を語ったのである。
黒駒といえば、清水の次郎長に出てくる悪役の黒駒の勝蔵ってのがいたでしょ。甲州の大親分「ども安」こと竹居の安五郎の子分で、高橋英樹の次郎長のときには、露口茂が演じていたっけ。苦み走った悪役で、羽二重の黒の小袖がよく似合っていた。
黒駒の勝蔵は実在の人物で、清水の次郎長の最大のライバルだった。幕末期、六十余州の侠客は次郎長派と勝蔵派に二分されており、さまざまなところで勢力争いの小競り合いをしている。伊勢荒神山の大喧嘩もその延長上にあり、荒神山では次郎長派の吉良の仁吉が壮烈な最期を遂げている。そのあたりは講談などに詳しい。
吉良という地名が出てきたので、強引に吉良上野介の話にもっていきますね。年末に歌舞伎座に行く前に、本所松坂町の吉良邸跡を訪ったことは以前にこの日記でふれたとおりである。
その吉良上野介、地元の吉良では「赤馬の殿様」と言われて尊敬されていた。吉良家というのは名家である。「足利が途絶えたときは吉良が継ぎ、吉良が途絶えたときは今川が継ぐ」と言われている。つまり源氏の血を強く残しており、申し訳ないがどこの馬の骨ともわからぬ徳川とは比べものにならない。ましてや、秀吉の嫁の縁者などという出自のわからぬ浅野家など、畏れ多くて近づくことも憚られる、それほどの由緒をもつ吉良家なのである。
そんな吉良上野介は徳川家の旗本高家筆頭として朝廷対応を担っていた。だから頻繁に京と江戸の間を行き来していたんですね。その途中に三河国吉良に立ち寄った。武家貴族の中でも高い血統、位階があるにもかかわらず、赤馬(駄馬)にまたがって領民の前に現れた。その飾らぬ姿に領民どもは「よい殿様よ」と慕ったものである。田辺明雄『忠臣蔵―証言・赤穂事件』(沖積社)から引く。
《上野介は地方領主として優れた現実政治家であり、仁政、善政の実行者であった。中央官吏としては彼は並ぶ者なき、いささかの怠りもない精励の人であった。》
赤馬の殿様は立派な人なのである。
歌舞伎に「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)という時代物がある。源平合戦に材を得たもので、主人公は源氏の侍熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)である。ワシャが好きなのは二段目の「須磨の浦」、本日のテーマの馬が大活躍をする。これは3カ月前の国立劇場のチラシだけれど、この「組打」というのが「須磨の浦」のこと。
http://www.ntj.jac.go.jp/assets/images/kokuritsu/img/leaflet/honchira2-omote.jpg
この場の主役は2人、熊谷直実と平敦盛(たいらのあつもり)である。この二人が黒駒と白馬に跨って太刀打ちをする。これがなかなか見どころですぞ。それも見どころなんだけど、注目していただきたいのは馬の脚である。名題下の役者が務めるのだが、これがなかなか大変なのだ。馬に乗る武者は、例えば国立劇場は幸四郎で、彼は60キロぐらいの体重で、かつ鎧を着込んでいる。どうだろう、総重量は75キロを超えるのではなかろうか。それに馬体が上乗せされるので、馬の脚は2人で150キロくらいを担ぐことになる。これが幸四郎の背負った幌を舞台に引きずらないように疾駆するわけである。見ているよりもよほど重労働と言っていい。
話が少し逸れるけれども、織田信長が桶狭間に出陣する際に舞ったといわれる幸若舞「人間五十年〜化天のうちを比ぶれば〜」は、この敦盛のエピソードに依っている。
その信長の公式記録『信長公記』巻十四の冒頭の部分に馬の関連の記事がある。
《正月朔日、他国衆の御出仕御免なされ、安土にこれある御馬廻衆ばかり、西の御門より東の御門へ御通しなされ、御覧あるべきの旨、上意にて、各その覚悟仕し候ところ、夜中より巳の刻まで雨降り、御出仕これなく、安土御構への北、松原町の西、海端へ付けて、御馬場を築かされ、元日より、菅谷九右衛門・堀久太郎・長谷川竹両三人御奉行にて、ご普請これあり》
大雑把に訳すと、「元旦に、大小名たちの年頭の挨拶のための出仕は中止になって、でも(信長は馬が好きなので)御馬廻衆だけは、接見するとの触れが出ていた。しかし、夜中から巳の刻(午前10時頃)まで雨が降ったので、御馬廻の接見は中止になった。安土城の北の松原町の琵琶湖寄りに馬場を築くことになり、菅谷ら3人が奉行をして元旦から工事が始まった」というところだろう。
それにしても元旦から信長の馬場を造るために家来たちは働かされていたわけで、それはそれで大変だろうなぁと思うのだった。元亀天正の頃から、奉公人はそんな感じなので、今さら、ワシャらが忙しいといって弱音をはいてはおられぬわい、そう思った年初であった。
ざっと馬尽くしで元旦の日記を書いてきましたが、もちろん今年が午年ゆえの戯れ言でござる。
今日の日記は、実は朝方に書いてしまったんだけど、ずっと昼までタイミングを計っておりましたぞ。なぜか。正午がちょうど昼九つ、午ノ刻なんですね。その馬もかけたくてじっと待っておりました。右下の更新時間を見てくだされ(笑)。
本年もよろしくお願いしま〜す。