日暮れて道遠し

 夕べ、なかなか寝つかれず、枕もとに並べてある司馬遼太郎の文庫の中から、たまたま手に触れた『司馬遼太郎か考えたこと5』(新潮文庫)を取り出して読み始める。この読書にはなんの目的もない。あるとすれば眠気がさせばいいということだけなので、適当にページを開いて、タイトルが面白そうで、それほどボリュームがなければオッケーだ。

 最初に開いたのは「わが空海」という題のエッセーで、22ページもあった。こりゃ長すぎる。眠れない。これだけの分量だと頭が覚醒してしまう。そのエッセーの前が「謀殺」という物騒なタイトルで、織田信長丹波、丹後攻略の話だった。7ページ程度のものだったので、これを読んだ。おもしろかったですよ。でも眠気はささない。

 そのひとつ前が「あとがき(『花の館』)」で、司馬さんが書いた唯一の戯曲について、言い訳のような「あとがき」になっていて、すこし照れているような司馬さんの表情が浮かんできて、これも楽しかった。しかし、瞼は重くならない。

 もうひとつ前が「私度僧になりたい」というヘンなタイトルのエッセーだ。3ページにも満たない短いもので、「私度僧」が気になって読み始めた。

 これが毒だった。完全にワシャの脳味噌は覚醒してしまった。書き出しはこうだ。

《明治の漢詩人である秋月韋軒のことをしらべていて、ちょっと興奮している途中で「わが文学の揺籃期」という題でなにか書け、といわれ、せっかくの気持が白けてしまった。》

 ふうむ・・・まずは「秋月韋軒」が解らない。これを調べないと次に進まないんですね。だからやっぱり枕もとの本の中から人名事典を取って確認する。

 ほう、会津藩士、秋月悌二郎のことだったか。幕末、松平容保に従って京都に出て、政務に携わり、その後の戊辰戦争会津藩の中心となって戦った。文武に秀で好漢であった。これは司馬さんが好きなタイプですな。

 さらに「わが文学の揺籃期」ときたもんだ。「揺籃」は「ゆりかご」で、司馬文学のベースとなる時期の話が聴けるのか!と思ったら完全に目が覚めた。

 要点だけを書いておくが、司馬さんは司馬文学の揺籃期(子供の頃)に自宅にあった徳富蘆花を読んだことを吐露している。そして蘆花を「作家でもなく、求道家でもない、いわば中世によくいた沙弥のような存在」だと言っている。そしてこう言う。

《たまたま引きあいとして出してきた蘆花をつかまえてしか、私は自分を語れそうにないが、私に望みがあるとすれば、私度僧でありたい。お前は作家か、といわれると、私は自分自身にもっとも忠実な返答としては、どうもそうではなさそうだ、とおもわざるをえない。》

 その後に司馬さんが小説を書き始めた時のエピソードが挿しこまれているのだが、『戈壁の匈奴(ごびのきょうど)』を同人雑誌に書いた折に、仲間から「変なものだな」と片づけられ衝撃を受けたという。このことで大司馬が以降の作品を書きはじめられなくなった。

《そのとき、別な友人が、「天下第一の悪作を書けや」といってくれたことで勇気を得》たと言い、結果として、大作家で思想家でもある「司馬遼太郎」が誕生した。

 この「別な友人」というのはおそらく作家の今東光氏であると推量する。司馬さんでも、凡夫の発言に悩まされ、それを救った大人が運よく近くにいたんですね。

 このアドバイスで司馬さんは立ち上がる。

《自分が自分でつくりあげている概念の桎梏からなんとか、自分の手足をぬけださせることができた。私度僧になりたい、というのは、いわば、そういうことなのである。》

 目が、完全に啓いた。

 それにしても、この文章を書いた時、司馬さんは47歳なんですね。ワシャはというと、それよりもはるかに年長者になってしまったが、しかし、47歳の司馬さんの足元にも及ばない阿呆である。一所懸命に生きてきたつもりなんですがねぇ(笑)。