会津娘子隊(あいづじょうしたい)の悲劇

 会津戦争での白虎隊の活躍、悲劇はつとに有名である。
 なにしろ、押し寄せる官軍を相手にわずか28万石の会津が総力戦を繰り広げた。とにかく武器を持てる者は、すべて戦力と見なされて編成が成される。
 成人男子で編成された精鋭部隊を朱雀隊、青龍隊、50歳以上を玄武隊、17歳以下を白虎隊と称した。その女性版を娘子隊と呼ぶ。彼女たちは、砲弾飛び交う会津市街戦を、薙刀を抱えて男たちに混じって奮戦している。
 この戦争にはいくつもの悲劇があった。まず、日露戦争の203高地や、太平洋戦争の局地戦でもそうなのだが、兵士は勇敢で獅子奮迅の戦いをする。しかし、司令部が愚鈍だった。会津若松城にこもって戦略を立てている藩官僚たちがボケていた。次々に拙い手を打って、多くの兵士を見殺しにしていく。
 また、官軍の幹部たちにまともな人材がいなかったことも悲劇につながった。例えば奥羽鎮撫総督府参謀の世羅修蔵である。二流の人物ゆえに浅慮しかできない。奥羽列藩同盟が提出した「会津藩赦免嘆願書」をはねつけてしまった。このことがどういう結果を招くかイメージが結べなかったのだ。
 あるいは、東山道総督府軍監の岩村高俊である。この男なども坂本龍馬から見れば、下っ端の下っ端なのだが、いかんせん土佐の優秀な人材は維新前夜に倒れており、こういった二流どころにお鉢が回ってくる。この小人も、越後の小千谷談判で河井継之助の懇願を突き返して長岡戦争を引き起こす。
 例えば世羅の代わりに、大村益次郎とか西郷隆盛あたりが出張ってきていれば、もっと言えば、坂本龍馬などが生き残っていれば、会津の悲劇もずいぶん違ったものになっていたように思う。

 かつて戦場だった市街地から雪の会津若松城を眺めながらそんなことを考えていた。(つづく)