最前線と司令本部

 107年前の遼東半島である。遼東の豕の遼東である。
 沼田多稼蔵の『日露陸戦新史』から引く。
《二十二日、天明くれば盤龍山東堡塁の斜面及び東鶏山北堡塁北斜面には死屍累々として横はり、所在地隙僅かに我が残兵の集合せるを望む。悲惨の光景名状すべからず。》
 旅順要塞への第1回目の攻撃後の状況である。第三軍司令の乃木希典は、1万6000名にのぼる犠牲者を出しながら、要塞にかすり傷一つ与えることができなかった。
 この大敗北を司馬遼太郎は冷徹な目でこう分析している。
〇第三軍司令部の位置が戦場から離れすぎている。
〇司令部が現場を見ずに指示をだす。
〇作戦が的外れで、単調に過ぎ、敵の攻撃を容易にした。
 第三軍の頭脳ともいうべき参謀長が伊地知幸介という人物だった。薩摩閥のエリートで、長期間、フランス・ドイツに留学しており、語学に堪能だ。この男が、文学者にでもなっていてくれれば多くの日本の若者が、無駄死にをせずとも済んだものを、もっとも重要なところにこういったとんでもない輩が紛れ込む。『坂の上の雲』に伊地知評がある。
「伊地知幸介がすぐれた作戦家であるという評判は、陸軍部内ですこしもなかった。ないどころか、物事についての固定観念のつよい人物で、いわゆる頑固であり、柔軟な判断力とか、状況の変化に対する応変能力というものをとてももっていないということも、かれの友人や旧部下の間ではよく知られていた。」
 こんなのが本部で指示を出していたのだ。そりゃぁ攻撃隊は全滅しますわなぁ。

 現在にも伊地知がいた。
 今、2冊の東日本大震災関連の本を読んでいる。麻生幾『前へ!』(新潮社)と、石井光太『遺体』(新潮社)である。『前へ!』の中に平成の伊地知が登場する。文章を引く。
《「そんな臆病な指揮官は代えろ!」
 消防庁幹部を怒鳴り上げた海江田大臣は、ハイパーレスキュー隊の隊長の解任を迫ったのである。》
 福島第1原発から220キロも離れた東京電力本店2階の対策統合本部で海江田大臣が大声を張り上げた。その経緯を説明する。
 3月18日、東京消防庁ハイパーレスキュー隊が到着し、自衛隊と交代するかたちで放水活動の準備に入った。敵陣を知りたい自衛隊は、再三東京電力に福島第1原発の建物配置図の提供を要請していたが、1週間たってもなんの音沙汰もなかった。それはハイパーも同様だった。高濃度の放射能塊の中を手探りでいくこととなる。ハイパーは広大な原発の敷地の中を放水ポイントを求めて彷徨うことになった。そしてようやく定めた放水ポイントも放射線量が300ミリシーベルトを超えていた。残念ながら3号機の周辺で放水可能な場所は、ことごとく数百ミリシーベルトの値を示したので、ハイパーは断腸の思いで放水をあきらめ正門へと後退したのである。
 これにたいして海江田が放った言葉が「そんな臆病な指揮官は代えろ!」だった。そしてこう続ける。
「ハイパー隊は下がれ!自衛隊と代われ!自衛隊をもう一度入れろ!」
 対策統合本部には、自衛隊や消防の幹部もいた。被災地や火災現場を知っている彼らには、現在、福島第1で部下たちの置かれている状況は、おおよその理解がついただろう。しかし、評論家から政治家という経歴を持つ顎だけで生きてきた男に災害の現場など想像もつかない。もちろん自衛隊や消防の幹部の意見に耳も貸さずに、海江田は喚き散らしているのだ。
 そしてついにこう言ってしまう。
「これは総理の命令だ!」
 海江田の発言は嘘だ。官庁間の調整のために対策統合本部に詰めている大臣に、官邸になんの確認もしないまま総理の言を代弁する権限はあるまい。これをこの臆病者はやってしまった。臆病な犬ほどよく吠えるというが、まさにそれだったろう。海江田はせいぜい小沢一郎の秘書程度の能力しかないのだが、この程度の人物が未曾有の大災害の指揮本部にいること自体、日本の悲劇と言っていい。
 これは、旅順攻撃で伊地知参謀長がやったことと同じである。現場を知らずして、己の浅薄、頑迷、固陋な考えだけで指示をだす。100年を経て、未曾有の国難には必ずこういった阿呆が登場し、犠牲者の山を累々と築いていくのだ。