世に生を得るは事を成すにあり

 司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の中で、竜馬の口を使ってこんなことを言っている。
「生死などは取り立てて考えるほどのものではない。何をするかということだけだと思っている。世に生を得るは事を成すにあり、と自分は考えている」
 なかなかこんなセリフは言えるものではない。司馬さんだからこそ発することのできる言葉なのだろう。
単細胞のワシャは、若かりし頃、このフレーズに触れ、「オレも成すあろう」と思ったものだった。
司馬さんは、司馬遼太郎になる前に、本名の福田定一で「サラリーマン」と題するエッセイを書いている。その中でこう言う。
「たいていの技能は、いくら片手間の習得でも三十年もやっておれば、立派に専門家になる。(中略)要はサラリーマン個々が、人生に緊張感をもつかもたぬかで決まろう。毎月の月給を三百六十回ノンベンダラリと貰っただけで人生の活動期を終える人物なら、何とも申しようがないが、もし成すあろうとするならば三十年の歳月は、十分に人間を育てうる」
 この言葉にも、若きワルシャワはガツンとやられた。その時から、人生に緊張感をもって生きようと思った。

「それで、ワルシャワくん、きみは何かを成したんか?」
 どこかの街角で、司馬さんにばったりお会いして、そう尋ねられたら、ワシャには返す言葉がない。司馬さんの箴言に触れてから、30年とは言わないが、ずいぶん長い歳月が流れた。にも関わらず、ワシャはまだ、何も成していないのである。

 出産を経験している女性はうらやましい。子供という実体を、身を以て製造しているのだから。それだけをとらえても「成した」と言える。この世に生を受けて、なにものかを成した。そういうことだ。
 ところがワシャら男ときたら、製造工程の初期段階で、ほんのひとしずくの関与をした程度でしかない。こんなことで、子供の命を「成した」とはとても言えないと思っている。
 だから、男どもは、あくせくと功名を求めて、戦場を走り回っているのかもしれない。

 ワシャも手柄を求め修羅の巷を右往左往している兵卒である。そろそろ矢も尽き、刀の刃こぼれがひどくなってきた。暗中模索の中で、なかなか大将首には出くわさない。

 どの戦線に行けば武勲を立てることができるのだろう。